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【1484】懐かしの飯田線 藤本哲男 08/7/23(水) 23:52 [添付][添付][添付][添付][添付]
【1485】飯田線考察 K.H.生 08/7/24(木) 9:03

【1484】懐かしの飯田線
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/7/23(水) 23:52 -
  
【1473】で893−2さんから美しい飯田線、懐かしい阪和線の画像の公開があった。そもそも、クローバー会会員の中で多少とも旧形国電に興味をもっていたのは、私と近鉄南大阪線沿線に住んでおられたT氏位のものと思っていたところ、他にもおられたことは誠に喜ばしい限りである。

飯田線の魅力は、車両と風景の双方にあったが、昭和51年頃までは旧形国電や旧形電機ファンが時折訪れる程度で、同業者と会うことは滅多に無かった。昭和53年10月末で流電クモハ52の勇退が伝えられると、俄かファンの急増で沿線が急に騒がしくなった。当時流電の運用は南部が中心で、北部まで足を伸ばすのは1運用のみで、それも撮影可能な時間帯ではなかったが、かつての蒸気機関車ほどではないものの、旧形国電がブームになった感があった。

関西からは南部の方が近いが、何故か北部に足が向いた。前述のように流電こそ撮れなかったが、半流の53007、53008、車内で運動会が出来ると云われた47153、47155、ロングシートながらスタイルの良かった61003等魅力的な車両が多かったし(最もこれらの車両は南部でも見ることが出来た)、貨物列車の先頭に立つのはED19、ED26で、こちらも電車に勝るとも劣らない魅力の持ち主であった。更に列車本数が多く飽きることが無かった。急行列車だけでも豊橋方面からの「伊那」新宿発の「こまがね」長野からの「天竜」があり、普通列車は今よりずっと本数が多く、貨物列車は駅の有効長の短さを本数でカバーするため本数が多かった。これらの上下を合わせると1時間に4〜6本、10分から15分間隔で列車が運転されていることになり、移動する間も無いほどの忙しさであった。

私自身は人出が多くなってからはあまり出掛けていないが、折角景色の良い所に行っても、走っている電車の方が気になり、結局中途半端な写真しか撮っていない。

中央高速道路が全通し、名古屋、新宿、長野行の高速バスが運転されるようになると乗客は、車両がデラックス、運賃が安くて早いバスにシフトしたため、急行列車はことごとく廃止されてしまったが、これは国鉄が何の対策も打たなかったからに他ならない。飯田線の管轄が全線静岡鉄道管理局で、東京管理局との連携が取り難かったことも原因かも知れないが、「こまがね」に代わって振り子式の「スーパーあずさ」の付属編成の乗り入れ、「あずさ回数券」のような大幅割引の運賃設定等で高速バスに十分対抗できた筈である。

新宿7時発の「スーパーあずさ1号」に時々乗るが、車掌から岡谷までの「あずさ回数券」で飯田線の駅までの乗越し切符を買っている乗客は少なからずおり、登山シーズンは「ムーンライト信州」で岡谷まで行き、タクシーで辰野まで行って飯田線の一番電車に乗る乗客もいるため、登山シーズン中だけでも上諏訪始発にできないものかと思っていたところ、一昨年のダイヤ改正(実際には改悪)で伊那松島始発になってしまった。

JRになってから更に連携が悪くなってしまったように感じる。最もJR東海にしてみれば名古屋から遠く離れた北部飯田線はお荷物以外の何者でもないのであろう。分割民営化の時、天竜峡以北の旧伊那電区間がJR東日本になっておれば、もう少し違った展開になっていたのではなかろうか。

旧形電車を置き換えた119系の寿命もあと4〜5年と云われている。115系は既に313系に置き換えられてしまった。119系の撮影を兼ねて、かつて旧形国電を撮影した場所を訪れてみたいと思っている。

今回はかつての飯田線の急行列車の画像を添付した。

1. 急行「伊那」80系       昭和46年9月25日   宮木〜伊那新町
2. 急行「伊那」165系      昭和49年2月18日   田切〜伊那福岡
3. 急行「伊那」165系7連    昭和48年7月28日   天竜峡〜千代
この当時、急行「伊那」は名古屋〜上諏訪間3往復、豊橋〜飯田間1往復運転されていたが名古屋〜上諏訪間の列車は飯田まで付属編成を3両増結し、7両編成で運転されていた。
4. 急行「こまがね」キハ58×2  昭和46年9月25日   宮木〜伊那新町
5. 急行「こまがね」165系    昭和48年1月14日   大田切〜宮田

添付画像
【急行伊那80系.jpg : 63.0KB】

添付画像
【急行伊那165系.jpg : 157.2KB】

添付画像
【急行伊那165系A.jpg : 72.5KB】

添付画像
【こまがねキハ58×2.jpg : 64.0KB】

添付画像
【急行こまがね.jpg : 125.5KB】
引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 急行伊那80系.jpg
・サイズ : 63.0KB

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・名前 : 急行伊那165系.jpg
・サイズ : 157.2KB

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・名前 : こまがねキハ58×2.jpg
・サイズ : 64.0KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 急行こまがね.jpg
・サイズ : 125.5KB
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【1485】飯田線考察
 K.H.生  - 08/7/24(木) 9:03 -
  
藤本氏の飯田線の現況に対する分析を読んでなるほど、と思った。
国鉄管理局時代の官僚的体質、現在の分割会社化における問題点も
然りである。
何事もやる気のある人は居るのだが、全体の見えていない人が
立場上、上にいると、手を打たない、これも世の失敗の常である。

小生は近年、伊那に縁が出来、飯田線沿線によく行くようになった。
辰野の駅前、築100年の駅前旅館のことを知ったのも最近である。
鉄道ファンが自動車で行くのは後ろめたいが、三州街道とその裏みち、
恵那山トンネル以前の旧道である大平峠と木曽に抜ける旧権兵衛峠の
風光など、これは別の魅力がある。
また辰野ー塩尻間の元中央線区間など、今では蛍の名所として知られ
関東からも季節客を集めているようである。

地図を見るのが楽しい。それを久々に感じたのは木曽谷を走る
歴史の重い中央西線山岳区間と伊那谷を走る軽やかな飯田線の対比。
街道風景の違い、植物、花の色、地酒の味まですべて違って見えるので
ある。

あと、これは是非やってみたいと思うのが飯田線南部の山岳区間、
大嵐や佐久間ダム周辺を1970年代に流行った分解型の自転車、
輪行ランドナーで走ることである。
これは数年前、自動車の運転に倦むような体験があり、その横を
自転車のツーリングの一群が駆け抜けていった時に気付いた。
そう、体力で行ける範囲を自転車旅に費やして、最後は飯田線の
最寄りの駅から電車に乗れば、豊橋から先は新幹線で帰れるのである。
孤独な駅の旅情も「俺一人」の旅も楽しめる。

豊川や浜名湖付近から関西まで疲れきった体で車を運転するより
何百倍も精神的にも健康であろう。
こだまで帰っても、渋滞の高速より遥かに楽だ。ビールも飲める!
ローライ35一台で鉄道の写真も写しながら。

まだ実行に移せていないが、これからのおじん旅を開拓したいと思う。
おまけ
893-2君、阪和線の旧型時代、よく撮られてましたね。
そういう小生も可部線17mや宇部線を撮っていますが。
私は東羽衣に幼い時にいたので阪和線の古い電車は遠い日の原風景です。
引用なし
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