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【1555】続々大西顧問を偲んで 乙訓の老人 08/8/31(日) 12:31

【1555】続々大西顧問を偲んで
 乙訓の老人 E-MAIL  - 08/8/31(日) 12:31 -
  
またしてスカタン発生。【1542】の記事コピーを漢字の好きな身近な人に送ったら、葉書が一葉舞い込んできた。「鉄路閣は誰が付けたかなかなかの命名です。
「閣」は元々下が吹き抜けの渡り廊下の意味があり、高架橋を「閣」と呼ぶのは適切な用語です。訂正、「木へんに共」は肘木の意味で、アーチは「拱」−手へんのほうです。大きな思い違いでした。ゴメン。とあり、スハ33に続くスカタンとなってしまった。身近な人は傘寿を迎えた後期高齢者につき、お許しの程を……。
さて、なぜこのような構築物が造られたのか新聞では、洪水時に線路の土手が水を遮らないように、となっているが、「溢」の字に注目していただきたい。溢れる水を土手が損傷することなく、下流へ一早く処理することが目的なのである。後期高齢者は「避溢橋」は土木の専門専門用語なのでしょうが、中国の建築書にはありません。と言っている。馬場の6連は「洪」となっていたように思うが、上植野村の方は「水」となっていた。
こうした洪水に対しての備えについては農民の力は強いもので、水処理を先祖代々伝えられているから、田圃をはじめ財産を守るため時の権力者との係争が今もある。1953年9月、宇治川洪水での京阪本線宇治川橋梁と木津川橋梁間の築堤流出は、こうした教訓を無視したもので、食糧増産の掛声の下、巨椋池干拓工事の配慮がなかったことに起因している。旧流路はまだ生きていることを認識すべきであった。1958年の出来事は「関西の鉄道、44号」で老人の手により紹介した。関心ある人は1890円ご用意の上、梅田旭屋書店へお出まし下され。
引用なし
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