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同志社大学鉄道同好会 〜40年の軌跡〜

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 創立当時の面影

昭和40年4月
オリエンテーション

昭和40年2月
飯山線越後鹿渡駅恒例雪合戦
今は無き諸先輩が写っていて落涙とどまる時を知らず、の感があります 攻撃中は中林英信、こちらを向いているのは大西、原田、南の各氏。このあと駅員から「京都の大学生は中学以下だ」とあきれかえられた。

昭和40年6月
大西田植え

奈良・鹿野園で田植えする大西邦雄。 上は桜井線のC11

昭和40年3月1日〜適当 
春期合宿
京都→(平安3)名古屋→(おんたけ)塩尻→小渕沢→小諸→長野→越後鹿渡→越後川口→宮内→直江津→関山(岩波敏雄野ツボにはまる)→米原→京都 青信号15号参照

昭和40年5月22日
円山公園内・長楽寺での最後のコンパを開く。
今考えると国宝を有する長楽寺が、よくすき焼きコンパにかしてくれたものだとおもう。 当会に信用があったのか、時代がおおらかだったのか隔世の感あり。 40年度会長・吉田耕司の提案で会に班をつくる。

昭和40年8月24日〜日程不明
夏期狂化合宿 五能線 青信号16号参照

昭和41年4月22日
会員50名を突破したため班活動を再編、模型班・前田、旅行班・末沢、写真班・早川、車両班・津村が班長に就任。
さらに青信号要員育成とチームワーク醸成のため月刊誌「補機」を発行、初代編集長に滝本就任。

昭和41年5月25日 14時15分
昭和41年6月
会章・バッジを作ることになり工学部・平山義郎にデザインを依頼。
その後決定するも予算不足のため、バッジ製作は来年度予算になる。 この頃、大脇仙人と田野城が室町に完成予定の新学生会館分室(通称:室町BOX)獲得のため暗躍、学友会の内諾を得る。


バッジのデザイン画
昭和41年6月11、12日
大阪・弁天町の交通科学館で関西学生鉄道研究会連盟(学鉄連)で初の運転会開催。
委員長は藤田圭造(3年)、車両持参一般人200名車両380両の盛況。

昭和41年6月29日
「青信号」300円に値上げ。

昭和41年7月5日
室町BOX獲得、入居。  
晴れて音痴コーラスと手が切れた。 プレハブ二階建ての二階で、夏は暑く冬寒い狭い部屋であったが、一日中誰かがいて、いつも議論や笑いの絶えない場所であった。 この場所で同好会は60名になんなんとする黄金時代を迎えるのである。

昭和41年 夏休み  7月23日〜
夏期合宿は会津線、沼尻鉄道へ 青信号17号参照

昭和42年5月
バッジ完成、販売1個100円、OBは200円。


バッジ完成品
写真提供者&文責:田野城 喬(’64年度生)

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