東急多摩川駅にて

最近は日本の人口が減少に向かい、特に地方では過疎化が進んで鉄道のローカル線や路線バスの廃止のニュースをよく見る。このような中でも東京だけは人口があまり減らないのか多くの駅で電車がひっきりなしに上下する風景が見られる。東京、新宿、渋谷、池袋、上野界隈がそうであるし先日も総本家さんが中央本線阿佐ヶ谷での複々線4列車総並びを発表されておりその一端がうかがえる。関東では私鉄に目を向けると関西の阪急十三、南海新今宮、近鉄鶴橋のような圧巻的風景は見られないが東急東横線の多摩川駅では実に多種の電車が見られる。特に最近は神奈川県内のみ(横浜-海老名間、支線の二俣川-湘南台間、厚木貨物線)の営業であった相模鉄道がJRや東急と相互乗り入れを実施して東京心部や埼玉県まで顔を出すようになったことで多摩川駅の車両のバラェティを深めている。

東急多摩川駅では東急の他、横浜高速鉄道(みなとみらい線)、東京メトロ、東武鉄道、西武鉄道、東京都、埼玉高速鉄道、そして相模鉄道が加わることにより8社の車両を見ることができる。各車両ほぼ同じ位置の単調で面白みに欠ける記録であるがこれだけの会社がそれぞれ2~3種類の車輛を投入してくるので飽きることはない。併走も含めて発表してみる。

まず最初に今回の定点多種車両撮影に至った起爆剤的な相模鉄道についても若干触れてみたいと思う。独特の単一カラーでよく目立つ相模鉄道通称相鉄は以前は準大手私鉄の位置づけであったが、1990(平成2)年4月にいずみ中央駅まで延伸されたのを機に同年5月31日正式に大手民営鉄道として認定を受けた。相模鉄道の歴史がややこしいのは相模鉄道とは現在のJR相模線のことで大正6(1917)年に創立され、現在の相模鉄道は当初神中軌道、後に神中鉄道となった鉄道でやはり同時期の創立である。昭和18年(1943)年には神中鉄道は相模鉄道に吸収合併され、元の相模鉄道自身は1944年に国有化され残った神中線が相模鉄道となって今日に至っている。その間相模鉄道は東急になったり小田急の干渉があったりして紆余曲折の歴史があったが横浜駅西口(相鉄ジョイナスや高島屋のある所)の土地買収により安定的な経営をするようになったと言われている。私が最初に見た相模鉄道には神中時代の汽車ポッポのムードが残っていた。駅の改札口は木製のラッチが多く海老名などは田圃に蛇が出てくるような田舎であった。1955年の流線形湘南窓ボディマウントの5000系や続いて登場した1961年の6000系20メートル車の導入で大手に近づいて来たように思う。5000系、6000系の写真である。

1972.2.20 大和付近を行く急行海老名行き5011。湘南窓に車体下部を覆ったスタイルに人気があったが直ぐに更新改造されて消えて行きそのスタイルが惜しまれる車両である。▼

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DF50思い出写真(10)山陰本線

DF50は北海道や関東地方を除き概ね各地で見られた。伯備線、大社線や中央本線では撮ることができなかったが、0番台スルザー形(ズルツアー形)65両、500番台マン形73両計138両の走行線区は一応網羅したつもりである。

最終回はDF50が健在であった時代にDRFC-OBの皆さんが日常よく見たり乗ったりされた山陰本線である。所属は勿論DF50が大量に配属されていた米子区である。

最初は1969.5.4京都駅山陰線ホームから撮ったDF50525である。カラーでなく残念であるが旧塗装(新製時の茶系)の方が急行を含め旧型車を牽くのに似合っており私は古い色が好みであった。▼

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梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。

 

 

 

 

DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 

世界の恐ろしい戦争に加えて新年早々いろいろな悲しいニュースが飛び込んできた。さらに政治の世界はどうなっているのか嫌な年のスタートとなった。この様な中で正月もあっという間に1週間が過ぎてしまった。デジ青もなかなか気分的に進まないが、私のヘボシリーズが残っているのでこれを片付けないといけないと思いDF50の思い出写真シリーズを始める。

今回は四国のささやかな思い出である。確か快速つくばねさんからご指摘があったかと思うが、当時の時刻表には土讃本線、予算本線とあるが、最近の時刻表にはなし表示であることを確認しそれに従った。

1977.8.27  松山から高知までバスで山越えし、南国土佐の高知駅12時41分発のDF50517[高知]牽引226列車高松行きの最後部オハフ332392四コチに乗車。メモにはこの日は酷暑とあるがDF50の正面貫通ドアはだらしなく開けっ放しで男前台無しである。このDF50517~520は1958年新製当初から四国に配置され78~79年の廃車まで基本的に高知区から他区へ出ることがなかったのも珍しい。▼

DF50517を再度撮ろうと思い土佐山田でキハ58128の急行「あしずり3号」に乗り換え大歩危で降りて追い抜いた226列車を山間部で待つも現れたのはまたドア開けっ放しのだらしない姿のまま。諦めて次の急行「土佐5号」で阿波池田に向った。夕方の225列車高松発高知行きDF5012[高松]を撮影。この日は阿波池田で泊まった。▼ 続きを読む

DF50の思い出写真(8)播但線

私の知る播但線DF50は列車牽引でなく補機運用であった。播但線は過去に生野峠のトンネル内で機関車の不幸な事故が起きた暗い過去もあったが、回送を兼ねたC57の3重連を生むなどファン向けのサービス運行もあった路線である。北陸本線の杉津峠のような印象的なシーンではないが播但線補機の数少ない記録である。

1962.12.16和田山駅で待機する前補機DF5064[米子]+本務機C5523[豊岡]の貨物列車。DF50はピカピカの新車の感じで茶系の落ち着いた旧塗装であった。C5523は少し見づらいが流線形改造の面影が運転室付近に残っている。▼

196712.16生野駅の城崎発3606列車週末準急「ゆあみ」大阪行き。本務機C5562[豊岡]と前補機DF5064[米子]が側線に後退する姿。DF5064はこの日は補機専用の仕業であった。C5562はラストナンバーで姫路からはEF58交代して大阪に向った。▼

撮影とフィルム現像の失敗で申し訳ない写真であるが、1969.2.23生野付近で下ってくるDF50前補機+C57本務機の姫路方面に向う上り貨物列車。C57は既に絶気状態である。各列車こんな姿で和田山-生野間を走っていた。▼

東のC59、C62の記録

総本家青信号特派員さんの「西のC59、C62全記録」シリーズが一段落されたと思うのでここで仙台を中心とした「東のC59、C62」を発表したい。特派員さんほど秀麗な写真はないが、わずかな記録であるので、見たことがあるシーンも含まれているのはそれだけ撮影枚数が少ないということでご容赦いただきたい。

まず、C59であるが東北本線のC59は上野から宇都宮、白河、福島あたりで活躍してきたが私が見たのはわずかに残った仙台区の2両で最後の活躍をしていた頃である。

2両は戦前型のC5990と戦後型のC59176 である。何れも山陽路のそれとは異なり予備灯がついていた。仙台機関区は駅の横にありC59~C62の大型旅客用の機関車が狭い場所にたむろしていた。因みに貨物機は長町区が中心であった。1965.9.4 仙台C5990▼

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DF50の思い出写真(7)紀勢本線・関西本線

関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼

もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼

1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼

1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼

DF50思い出写真(6)篠ノ井線・中央本線

前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。

1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼

折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼

富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼

長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。

 

上毛電鉄デハ101に乗る

11月11日(土)京王9ミリ会という趣味の団体によるバスツアーに参加して久しぶりに1928(昭和3)年製の釣り掛け電車の音を堪能してきた。このツアーには藤本哲男さんも参加され知らない人が多い中で心強いばかりであった。京王自動車の貸し切り観光バスの車内では何と小田急のロマンスカーの下敷きも配布され、この会は小田急の同類の会と親交があるように感じた。車庫のある大胡からデハ101に乗車し大胡→西桐生→中央前橋→大胡と全線を走破した。貸し切り電車の運行ダイヤの都合か西桐生のホームのベンチで上毛弁当を30分足らずで食べさらにこの日は上州名物の空っ風も吹いて難儀した。▼

デハ101はイベント車両として活躍中で既に乗られた方もおられると思うが私は始めての乗車であった。板張りの床の点検蓋からは走行中の地面が見えたのは久しぶりの体験である。神戸川崎車輛製デハ101 ▼

上毛電鉄は東武の関連会社であるが、現在営業に使用されている車両は元京王井の頭線の3000系である700系ばかり。このツアーでは列車撮影が計画されていなかったので、2018.12.1樋越-大胡間で撮ったクハ724+デハ714の中央前橋行きとクハ724の譲渡前の1969.5.23撮影の京王井の頭線時代のクハ3709を載せた。上毛の700系もそろそろ廃車となるらしいが次は東京メトロのようだ。▼

井の頭公園を出て終点吉祥寺に向う4連時代のクハ3709▼

 

DF50思い出写真(5)北陸本線

北陸本線と仰々しく書いたが実は機関区のはずれで撮ったもの1枚だけである。1965年2月10日京都駅で同学年のTさん、Sさんの見送りを受けて21時12分発521列車新潟行きに乗車。翌11日8時15分曇り空の筒石駅で下車。灰色の日本海はすぐ横で、客貨ともに糸魚川区のD51牽引だったが長野発米原行き611列車1本だけC57が牽いていた。筒石12時5分215列車直江津行きで直江津まで行く。ここで機関区を物色。この時に目的のD50183[直江津]と1両だけいたDF50515[富山]を撮影。この後は直江津15時30分発長野行きに乗車しスイッチバック駅二本木で下車し投宿。雪の中でD51重連急行「白山」等を撮影して東京に向った。

ということで有名な敦賀一区時代のDF50の活躍は逃してしまい直江津区で撮ったこのDF50515だけである。急行「日本海」、「黒部」、「北陸」等を牽引したものと思われる。同機は1970年に高松に転属し1977年に廃車されている。▼

DF50思い出写真(4)奥羽本線

これは再度申し上げるが蒸機の撮影の合間に撮ったDF50の気まぐれ写真である。カラーの変色、ピンボケを敢えて出したがお許し願いたい。秋田にもDF50マン形が集中配属され、奥羽本線、羽越本線の優等列車牽引等に活躍していたが、羽越本線では撮る機会がなかった。今回はやや日誌風にし、番号の分かる機関車はその変遷を記した。

1965(昭和40)年8月31日急行「八甲田」で早朝の青森に下り立ち、初めての東北の爽やかな空気を吸った。キューロクの入れ換えやC60の上野行きを撮ったあと奥羽本線の列車に乗った。一人旅で気の向くまま鶴ヶ坂で降りた。そこでC60、C61、D51の旅客列車とDF50を撮った。

8時40分大館発青森行きを牽引する秋田区のDF50549が鉄道防雪林の横を青森を目指してやってくる。

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「お城と鉄道」番外編 会津若松城(鶴ヶ城)

「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。

会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。

山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。

慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。

「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。

198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼

2013.4.10   「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼

2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼

2013.4.10  東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。

 

DF50思い出写真(3)磐越西線

1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。

早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼

上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼

DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼

この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。

DF50思い出写真(2)日豊本線

比較的優等列車の多い路線には500番台マン型が配属された。当時の大分運転所にその500番台が集中配属されていた。ここでもC55やC57が旅客列車や貨物列車を担当し、DF50は急行の「高千穂」、「日向」、「ぶんご」、「夕月」等に、また、ブルートレイン特急の「富士」、「みずほ」、「彗星」に使われた。

1962.10.20 修学旅行は関西汽船で別府に行き、1泊後高崎山に行った。お猿に土産物を盗られないようにしながらDF50の列車を撮った。西大分-東別府間を行く520列車南延岡発門司港行きで左手に駐車中の観光バスが見られるがこの付近を大分交通別大線(1972.4廃止)が走っていた。▼

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DF50の思い出写真(1)福知山線

DF50は亜幹線の無煙化を目的に1957(昭和32)年に先行試作され1963(昭和38)年まで増備された電気式ディーゼル機関車である。1-7号機は試作機である。

DF50と言えばED60やED70等と似た顔で国鉄設計陣の思想なのか車両会社の提案なのか、はたまた両者の合作なのかよくわからないが、とてもいい顔をしていると思う。それにBーBーBの軸配置は丙線入線を考慮したようであるがこれが16mの短い車体に綺麗に収まっている。一方、同じディーゼル機でもDD13やDD51は凸型であることも影響しているのか好きになれない機関車だった。また、DD50と異なり暖房車連結不要の蒸気発生装置がついていて正しく無煙化対応がなされていた。0番台は新三菱重工、汽車、日車でスイスのズルツァー社との提携で65両、500番台は西ドイツ(現ドイツ)マン社との提携で川車、東芝、日立で73両計138両が製造された。500番台のマン型の方が僅かながら定格速度が速かったので優等列車の多い路線で使用された。機械的なこと、技術的なことはよくわからないが、マン型はドドドドという連続した音で、ズルツアー型は焼玉のようなポンポンポンというリズミカルな音だったということだが私にはの2種類の区別がわからなくいつもブルンブルンブルンという音に続くオハ61系等の客車のガタンガタンの音の記憶が強くとにかくスピードが遅い機関車という印象を持っている。当初は茶色っぽい色(こちらの方が貫禄があって好きであった)で後に明るいオレンジとグレーに変更されていったが線区によってあるいは列車種別や固定編成客車用に対しても一貫してオレンジ、グレーの色を変えなかったことが嬉しい。

1961.4.2 私が最初に撮った鉄道写真は宝塚駅手前でのDF5049[米子]牽引の門司発712列車山陰線経由大阪行き長距離鈍行であった。ご覧の通り下手な写真であるが、鋼体化改造客車のひとつ開いた窓や木製の日よけ、ドアを開けて風にあたるお客など開放的でこれが客車と思う日常いつでも見られた列車風景であった。▼

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お城と電車(25)彦根城

徳川家康の命により、関ケ原で戦功のあった上州高崎の井伊直政が近江に封ぜられ慶長8(1603)年頃に築城に着手し元和8(1622)年に全体の完成がなされた。彦根城はその普請に際して近縁の諸城から門や櫓など多くの建物を移建したとも伝えられ、石垣も運ばれたという。大津城、安土城、長浜城、小谷城などがその対象となったようである。

2023.8.29 彦根城 三層三階の天守に石垣は牛蒡積み(野面積みでも奥行きのある胴長石を用いる)▼

2023.8.29 本丸太鼓門 ▼

2023.8.29  彦根駅の3475M近江塩津発新快速姫路行きクモハ224-104 ▼

彦根城は車を運転していた頃近江八幡城や安土城訪問後に行こうとしたがテントを張って工事中のため諦めた経緯がある。今回の訪問で日本の残存天守のある城は全て行ったことになる。猛暑の中、彦根駅からは徒歩でも行けるが往復タクシーを利用した。タクシーを降りてからが大変で長い階段状の道を歩き、天守へは急な階段を登り一苦労で会った。電車からは遠くに彦根城を見ることができたが、線路端を歩き城を入れて電車を撮る気力はなかった。湖国に聳える国宝彦根城を最後に「お城と電車」シリーズは終了とさせていただく。

 

お城と電車(24)姫路城

姫路城の始まりは羽柴秀吉が姫山に三重の天守を構えた時からである。慶長6(1601)年に姫路に入城した池田輝政は大造営に着手し、同14年までに城郭全体の事業を成し遂げた。白鷺城とも言われ最も美しい城である。

2014.4.10  国宝であり、世界文化遺産登録の姫路城▼

2014.4.10 満開の桜と姫路城 ▼

姫路城をバックにした鉄道写真は是非撮ってみたいが場所が見つからず今日に至っている。あれだけ大きな城であるから新幹線、播但線、山陽電鉄のどこかで見えると思うが熊本や松山の様にはいかない。皆さんで撮れそうな場所があれば情報をお願いしたい。仕方なく姫路駅付近で撮影した写真を貼らせていただく。

2014.4.10 EF651136牽引西鹿児島発新大阪行き32列車「なは」と播但線用103系 ▼

1965.11.12 姫路駅を出発するC5743[豊岡]牽引の播但線貨物列車 ▼

 

お城と電車(23)松山城

夏目漱石の「坊っちゃん」や道後温泉で有名な松山にも残存天守がある。松山城は姫路城、和歌山城とともに三大平山城に数えられている。賤ケ岳の七本槍の一人加藤嘉明が築城した最初の松山城は五層であった。現存する天守は安政元(1854)年の再建であり、日本の残存天守の中では一番新しい。

1998.5.1 勝山山頂にある壮麗なたたずまいの松山城 ▼

伊予鉄道市内線電車と松山城を入れて撮れる場所が愛媛県庁付近にあるが、その機会を逃してしまった。伊予鉄市内線ではDRFCの間では元京都市電2000形の活躍が人気であるが、どのような形式でもかまわないのでお城を入れて撮られた方がおられたら貼り付け投稿していただきたい。私のは2017.7.16JR松山駅前の2103である。▼

お城と電車(22)島原城

「お城と電車」と何気なく題を付けてきたが気動車が走る非電化区間も題としては電車である。今の若い方、特に女性は気動車であっても電車と表現する方も多いのでその辺は気にしないで進めることとする。気にするのは今デジ青上では総本家さんが自主公演「あの日あの頃ほぼ同月同日に還る~26~」で島原鉄道を取り上げられていることである。この点についてはつい先日総本家さんと東京渋谷で島原城ほかの話をさせていただいたのでここに発表させていただく。お城シリーズもそろそろ打ち止めであるが話が進むうちに思った以上に立派な島原城があったので今回の発表とした。

島原城は1618(元和4)年から松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた近世城郭で五層の天守閣と大小の櫓から成る壮麗な城であった。それ以来4氏19代の居城であったが、1876(明治9)年に石垣と堀を残して解体された。1964(昭和39)年に地元の方や関係者の熱望もあり天守閣が復元された。4万石とは思えない分不相応の立派な城である。

2007.10.28 朝撮影した島原城 ▼

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お城と電車(21)犬山城

暑くて投稿が進まないが久しぶりの「お城と電車」である。残存天守のお城には鉄道を入れて撮れるのがなかなかないのが悩みである。今回の犬山城はNHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台となった木曽川河畔にある風光明媚な国宝の城である。犬山城は天文6(1537)年に創築された美濃金山城の移築説もあり同年信長の叔父信康が築城したとも言われているがはっきりしていない。本能寺の変以降は秀吉対家康・信雄連合の小牧・長久手の戦いを経て、世の中は徐々に家康が優勢となっていった。この間、家康が名古屋城を築くまでは犬山城の軍事的な位置づけは大きかった。一方、犬山城は成瀬家個人の所有で有名であった。元和3(1617)年に成瀬正成が城主となり以降9代の長きに渡り城地を守り続け明治を迎えた。濃尾大地震では天守以外は倒壊したが、旧城主の成瀬家の努力で保存された。1981.1.21のカラー写真の保存状態がよくなくこれ1枚が一番マシであるので掲載させていただく。▼

2009.3.7にDRFC-OB会の会合が犬山で開催されたが、翌日は明治村の古典蒸機、N電、蒸気動車それに古い建造物を見学した。行事終了後、名鉄犬山線と並行して走るJR高山本線を撮影した。その中に名鉄5402~5302の新岐阜発犬山行きを撮った写真があるが遠くの山の上にかろうじて犬山城が見える。5300系は5700系と同様にパノラマカーなき後にも残っていた2ドアクロスの車両で5700系が新造車であるのに対し、5300系は5000系や5200系からの機器流用車である。▼