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(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

2010 年 8 月 28 日 土曜日

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。


標茶町営軌道に添えて

2010 年 8 月 25 日 水曜日

 

藤本先輩の標茶訪問記を拝見し、廃止される前の最後の冬 昭和46年3月7日の写真をご紹介します。先の茶内浜中を訪れる約1週間前に開運町へ行ったときのものです。藤本氏の記事を読みながら、標茶駅から開運町まで1.7kmもあったのかとか、標茶川を渡ったのかなど全く記憶にありませんが、多分誰かに場所を聞いて、黙々と雪道を歩いたのでしょう。着いたところが 車輌は雪に埋もれ 運休していると聞いてガッカリした記憶だけが残っています。ニチユ製のDA57と 運輸工業の牽引客車、釧路製作所製6TonDL(No.3), 北炭夕張製の6TonDL, 車庫内で眠る泰和製?自走客車の5両が撮影したすべてです。

 

ニチユ DA57

ニチユ DA57

 運輸工楨??牽引客車

標茶町営軌道

2010 年 8 月 23 日 月曜日

標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。

【沿革】

標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。

【車両】

昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)

自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)

ロータリー車1両泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両有蓋貨車1両、無蓋貨車7両

上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。

【運行】

昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。

標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)

下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分

貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)

沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)

所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。

道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。

以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。

 

40年泰和車両製の自走客車

 

32年運輸工業製の牽引客車

 

40年北炭夕張製の6tDL

 

39年釧路製作所製の6tDL

 

28年酒井車両製の8tDL

時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。

 

五十石駅で交換した623レのC58127

江若鉄道三井寺下再現(その1)

2010 年 8 月 22 日 日曜日
琵琶湖疎水鉄橋

琵琶湖疎水鉄橋

三井寺下駅の再現に向けて、全体配置図も出来たので工事にとりかかることにしました。とは言え、5ブロックに分けて 自室になんとか収まる大きさで ポイントの数も17個、本社屋、駅舎、車庫2棟、数多くの詰所類、給水塔、播但鉄道の客車廃車体等々これから先の工程を考えると完成がいつになるのか見通しがたちませんが(資金繰りも)、車輌の増備も並行して 気長に工事を進めるつもりです。高島町と白鬚を作った際の残材がそれなりにあって、この残材だけで1ブロックができることがわかり、急ごしらえながら先行着手しました。三井寺下の浜大津側の1ブロックです。このブロックのハイライトは琵琶湖疎水を渡る鉄橋と2つの踏切(1つは遮断機があり警手もいる踏切)、そして場内信号機(腕木)で、小さなブロックながら単独でも展示台として使えるものです。琵琶湖疎水鉄橋部分だけが出来たので ご紹介します。ガーダーは真鍮板で作りました。これまたカラー写真がなく、客車たちを塗装した緑色のラッカーの残りを使って 薄緑色にしました。実際は赤茶色(さび止め色)だったかもしれません。ご笑覧あれ。

東海道京都電化前夜

2010 年 8 月 17 日 火曜日
1956年11月3日梅小路機関区にて

1956年11月3日梅小路機関区にて

昔の写真が見つかった。撮影は昭和31年11月3日、京都電化の直前である。以前の湯口先輩による山科電化工事記録と同じ時期。おそらくは梅小路が受け持つ蒸機による東海道線最後のお召しではなかろうか。写っているのは機関区員とその家族だろう。撮影したのは父か写真技師であるがいずれももういない。当時はガラス乾板で、文字は直接筆で書いた。書いた人は現在も八十才を超えて健在である。

後ろにC62のドームが見える。左の給水塔は山陰線脇にあった。

このときのお召し列車運転について詳しいことをご存じの方はぜひともお教え下さい。