ユースで巡った鉄道旅 -9-

しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。

西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。

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