澤村達也さんを偲んで

26日の偲ぶ会の席上、澤村さんが叡電デオ300形が大変お気に入りだったと言う話を聞いた。1970年生まれの息子も同じくデオがお気に入りであった。旦那が上高野沢渕町に引越しした頃、息子と2人で訪れた時に出町柳で当該車両を見るや目を見張っていた。帰宅するや「叡電買って!」となったのは当然で、当時リマのガラレールでエンドレスを始めていたが、よし久しぶりにやるかとなり、同中3年夏休みまでやっていたペーパーモデルに挑戦となった。この時2両作ったのだが、モーターカーは1両、近車のKD26だったかな、台車枠に天賞堂のパワートラックションをかませた。台車が軽快なためかよく走った。トレーラーはピボットにするためTR50だったかな、いずれにせよ中書島まで延長されることを願っていたから、2両連結でパンタ姿が必要だった。その後、ポール姿をと思いマッハで2本買ったが、取り替えることなく当家の「向陽鉄道」は息子の成長→野球青年、となり消滅した。澤村さんが模型に本腰を入れたと聞き、当時の部品取りをして全部引き取ってもらった。今回のデオは、入線した1959年4月上旬、恒例の春の東京電車巡りから帰宅したところへ、同中での同級生、茂良樹君から「新車入ったぞ!」と電話があり、慌てて修学院へ駆けつけたときのもである。茂君の父親は同志社教会の牧師で、
同志社高校の校長を兼務していたから、知る人も多いと思う。
ポールを上げた方の写真はどなたかにプレゼント

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試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景

澤村達也さんを偲んで」への1件のフィードバック

  1. 乙訓の老人様
    叡電デオ300形の貴重な写真の掲載ありがとうございます.デオ300形の竣工後の試運転の表示を付けている写真は初めてみました.その横にはまだまだ活躍していたデナ1形も写っています.また,三宅八幡駅近くで撮影された写真ですが,この場所は終点八瀬駅との中間地点となります.この車両は八瀬に向かって走行中です.しかし,写真で見ると単線であります.山端(宝ヶ池)~八瀬間は戦時中に越前本線増強のため片方のレールを撤去されましたが,昭和26年7月に撤去されたレールは復元され複線に戻されていると記述されていましたが,そうするとデオ300形が竣工したときにはこの間はすでに複線となっているはずですが.どなたかこの状況をご存じないでしょうか.
    ちなみに,私はこのデオ300形のマスコンを某鉄道イベントにて入手してます.沿線に居住してましたのでこのデオ300形は小さいときから何度も乗車しました.当時これだけの高性能を持った電車はこの線ではその力を持て余したことでしょう.Tcの計画もあったそうですが.先のデオ200形と同様,京阪への乗り入れを考慮されたものでしたがその夢は成りませんでした.
    当初電空併用ブレーキだったため運転手さんもブレーキ操作が難しかったらしく,見ていてもよく停車寸前でキキーと急ブレーキがかかるような停車をしていました.後年はブレーキもSME形に変更され,マスコンの電制操作により運転されたのでスムーズに運転されていたように思います.
    こうしたこともあり,私もこのデオ300形をHOゲージで昨年製作しました.「デナ21のブログ」に掲載しておりますので,見ていただけたら幸甚です.

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