澤村さんのお導き!

12月9日夕方、京都市内の某所で討ち入りならぬ秘密の打ち合わせが開かれるとの情報を得て、押っ取り刀で駆けつけた。そこには初老の男が7名、なにやら酒を飲みながらヒソヒソではなく大声でわめきあっている。一番年長らしい男に聞くと、まず自分はここで一番年下だと断った上で「DRFCのOBで、澤村氏の葬儀で会えなかったか、行けなかった者達の再会」とのこと。

DRFCのOBといえば、我が国鉄道趣味界における奇人変人の集合体としてとみに有名である。その会員とあらば並大抵の人格とは思えない。予想通り、話題は鉄道などかすりもせず、もっぱら年金とかつての仕事の話、さすがは奇人変人狂人の仲間である。

呼びかけの労を執って下さったパール田淵氏の心配をよそに、飲み放題をいいことに飲むは飲むは、ビールと焼酎お湯割りのやま。初参加のナポレオン山室氏や先ほど顧問の教授に間違えた稲毛氏、一人現役のサラリーマン・P6久我氏、などの怪気炎が夜の東山にこだましていた。

澤村さんのお導き!」への1件のフィードバック

  1. DRFCの奇人変人の一人である「乙訓」がどうも「大津の86」さんに、理解に苦しむことをタラタラとコメントしたようで申し訳ない。「びわこ」については「連接車」で検索してもらうと構造についていろいろ解説がされています。解説漏れは車体の連接部分が特許となっていたことです。開発したのはアメリカ・クリーブランド市にあった「クールマン・カー社」で、この会社は1904年「ブリル社」の傘下に入った。そこでブリルはこの特許を使ってまず市内電車用の車両を製造した。知られているのはボルチモア市のもので、ドラム構造のために安定したものであった。これに眼をつけたワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄は市内乗り入れ用に採用、1927年製造となった。それを1929年渡米した当時の京阪電鉄車両課長がブリル社の案内を受け試乗、京津電軌を併合した京阪は構想中であった阪津直通
    列車に採用を決めたのであった。老人は車両課長の御子息から直接聞いた話である。それだけに車両に関わっていた澤村さんは、復元についての発言は慎重であった。

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