越後交通長岡線


 越後平野を走るモハ3001/越後日吉~王寺川間(40-3-25)

 3月15日【18458】「小田急HB車/廃車後の行方」で、越後交通に行った車を解説したが、引き続き越後交通長岡線に在籍した車両について紹介する。

〔沿革〕
大正3年3月3日、来迎寺~長岡~寺泊を結ぶ目的で中貫鉄道が設立され、同年8月7日、長岡鉄道に社名変更した。
大正4年10月7日、与板~寺泊間(初代)を開業、以降、同5年1月5日、与板~西長岡間、同10年11月18日、西長岡~来迎寺間が開業して全線開通した。
戦後の昭和26年12月1日、西長岡~寺泊間が直流750Ⅴで電化が完成したが、工事期間は僅か2カ月半であった。ちなみにこの時の社長は田中角栄氏であった。
翌年11月1日、西長岡~来迎寺間が電化され全線の電化が完成した。
昭和35年10月1日、長岡鉄道、栃尾鉄道、中越自動車の3社が合併し越後交通が発足。同社の長岡線となった。
昭和36年10月3日、寺泊新道~寺泊間(初代)休止。同区間を41年5月31日廃止して寺泊新道を寺泊(2代目)に改称。
昭和44年9月、架線電圧を750Ⅴから1500Ⅴに昇圧。
昭和47年4月16日、西長岡~来迎寺間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。
昭和48年4月16日、大河津~寺泊間(2代目)廃止。
昭和50年4月1日、越後関原~大河津間を廃止、同時に西長岡~越後関原間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。これにより旅客営業は全廃となり貨物専業となった。
平成4年4月1日、西長岡~越後関原間休止。
平成5年3月31日、休止中の西長岡~越後関原間を廃止。営業区間は西長岡~来迎寺間の貨物営業のみとなった。
平成7年4月1日、西長岡~来迎寺間が廃止され、全線廃止となった。

 〔車両〕
撮影した車両についてのみ解説する。

①電気機関車
EB111/昭和27年日本鉄道自動車製。一見D型機に見えるが2個モーターである。昭和42年に廃車され、秋田中央交通(八郎潟~五城目)に譲渡された。しかし、昭和44年7月11日に鉄道営業が廃止され、バス専業になったため、僅か2年の活躍であった。

 (40-3-25)
西長岡
 

ED211/書類上は昭和29年日本鉄道自動車製となっているが、その経歴は極めて複雑である。大正8年枝光鐵工所で京王電気軌道の「20」として新製。昭和8年無蓋電動貨車「15」に改造。更に昭和16年有蓋電動貨車に改造され、昭和19年5月東急との合併による改番でデワ2915となった。昭和23年6月京王帝都電鉄として東急から独立後、27年に廃車。翌年3月長岡鉄道が譲受けデワ102となったが、程なくED211に改番された。スタイルが電気機関車らしくないのは以上の理由のためである。44年の1500Ⅴ昇圧時に廃車された。

 どう見ても電気機関車には見えない/(43-8-30) 
与板

ED261/旧国鉄ED26と言えば、飯田線にいた元伊那電鉄買収機を思い浮かべる方が多いと思うが、あちらは2代目で、初代はこちらである。
富山ライトレールとなった旧国鉄富山港線の前身富南鉄道のロコ2として大正13年ウェスチングハウス社で新製され、昭和15年日本鉄道自動車で改造された。鉄道省に買収後も同一車号で使用されていたが、昭和32年の改番でED261となった。昭和35年5月に廃車になり、36年7月に譲り受けた。昭和44年西武所沢工場で1500Ⅴ昇圧改造されたが昭和55年1月廃車になった。


 (43-8-30)
西長岡

ED262/昭和44年の1500V昇圧時、改造入場時の車両不足を補うため西武鉄道からの借入車を譲り受けた。
旧武蔵野鉄道のデキカ11として大正12年ウェスチングハウス社で新製、旧西武鉄道との合併で11に、昭和36年の改番でE11となった。昭和47年撮影時には早くも休車で、いくらも使用しないまま廃車になった。

 (47-4-30)
西長岡

ED311/元西武鉄道のE31で、昭和31年西武所沢工場製である。昭和39年2月に譲受け廃止まで活躍した。

 (41-9-7)
 西長岡

ED401/昭和42年東洋工機・東洋電機製の箱型機で、廃止時まで活躍した。


 上 
(47-4-30)  下 (50-3-22)  西長岡

ED511、512/元長野電鉄のED5002、5003で1500V昇圧後の昭和45年4月に譲り受けた。ED511は昭和2年、ED512は昭和3年、日立製作所製である。昭和55年1月同じ長野電鉄から譲り受けたED5101、5102と交代して廃車になったが、ED511は長野電鉄に里帰りして、小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されている。

 ED511 
(47-4-30) 西長岡

 ED512 
(50-3-22) 西長岡

(参考)長野電鉄時代

 ED5002→ED511/
(45-3-17) 須坂~北須坂

 ED5003→ED512/
(45-3-17)
 

ED5101、5102/元長野電鉄のED5101、5102で昭和54年9月に譲り受けた。更にその前があり、元は定山渓鉄道のED5001、5002として昭和32年、新三菱重工三原製作所で新製された機関車である。昭和44年10月31日廃止により、長野電鉄に譲渡されたが、昭和54年3月31日限りで貨物営業が廃止されたため、譲り受けた。廃止時まで主力機として活躍した。
貨物専業になってからは訪れていないので、定山渓鉄道と長野電鉄時代の写真を掲載した。

定山渓鉄道ED5001→長野電鉄ED5101→越後交通ED5101

 定山渓鉄道ED5001/
(42-9-9) 豊平

 長野電鉄ED5101/
(52-5-5) 須坂

定山渓鉄道ED5002→長野電鉄ED5102→越後交通ED5102

 定山渓鉄道ED5002/
(42-9-9) 豊平

 ②電車
モハ2001、2002→ホハ2001、2002
書類上は昭和27年東洋電機製となっているが、ガソリンカーから電車に改造した時である。昭和3年雨宮製作所で日本初のディーゼルカーキロ1、キロ2として新製された。昭和5年の改番でキロ201、202となった。トラブル続きのため13年にガソリンカーに改造され、キロ201→キハ203、キロ202→キハ202となった。更に17年には天然ガス代燃車に改造された。
昭和26年の750V電化により、東洋電機で電車に改造され、55馬力モーターが2コ取付けられ、キハ202(元キロ202)→モハ2001、キハ203(元キロ201)→モハ2002となった。制御方式は直接制御であった。
ここまでの経緯は湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP122~P125に詳細に記されているので、是非ご覧いただきたい。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2001、2002となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。
 
 モハ2001 
(41-9-7)

 
モハ2001の台車 (41-9-7)

 
モハ2002 (40-3-25)
 
 
電装解除後ホハ2001 (47-4-30)

モハ2003→ホハ2003
昭和29年東洋電機製で、車体は新製であるが、台車は京王帝都から譲り受けたデワ102が履いていたテーラー製のものを履いている。モーターは41Kwのものが2コ取付けられ、制御方式は直接制御であった。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2003となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。


 
(40-3-25) 下(43-8-30)

電装解除後のホハ2003 (47-4-30)

ホハ2003のテーラー台車 (47-4-30)

モハ3001、3002
昭和26年電化時に京浜急行からデハ111、112を譲り受け、東洋工機で車体を新製した。モーターは41Kwのものが4コ取付けられ、制御方式はHL制御であった。1500Ⅴ昇圧時に廃車となり、モハ3002は蒲原鉄道に譲渡され、同社のモハ81となった。

 モハ3001 (40-3-25)
 
  
 モハ3002/(41-9-7)
 
 
新塗装に変更後のモハ3002 (47-4-30)

モハ3005
昭和39年に京王帝都電鉄からデハ2125(昭和8年日本車輌製)を譲り受け、2扉に改造した。昇圧改造されることなく僅か5年で廃車になった。
 
 (40-3-25)/撮影時に扉を閉めなかったのは、乗車予定の電車の発車時間が迫っていたからと思われるが、無いよりマシと思っていただきたい。

モハ5001
昭和35年に元国鉄モハ1206を譲り受け、東急車両で両運化、1200Ⅴから750Ⅴに降圧等の改造の上入線した。車内はクロスシートのままで、連結面の運転台を復活して非貫通にした結果、原形に近くなった。
富士身延鉄道の買収車で、昭和3年新潟鐵工所でモハ110として新製。昭和16年10月鉄道省買収時にモハ93形93006に、昭和28年6月の改番でモハ1200形1206となった。買収後も引き続き身延線で使用されていたが、昭和22年に伊那松島機関区に転属し、主に北部飯田線の天竜峡~辰野間(旧伊那電鉄の区間)で使用された。昭和26年から実施された更新修繕で、後位の運転台を撤去して貫通扉、貫通幌の設置等が実施された。昭和30年4月に天竜峡~辰野間が1200Ⅴから1500Ⅴに昇圧されたため使用停止となった。
昭和44年の1500Ⅴ昇圧時にも改造されて引き続き使用されたが、昭和48年大河津~寺泊間の廃止時に廃車になった。
 
 (43-8-30)

 
新塗装に変更後 (47-4-30)

③客車
ハ6(ハ3形)/大正5年天野工場製の2軸単車で、車内は背擦りの低いクロスシートが10脚並び、定員は40名であった。
ハ3形として3~8の6両作られたが、撮影時点で残っていたのは、この車両のみであった。

  ハ6/
(40-3-25)

ハ9、ハ10、ハ11(ハ9形)/大正11年日本車輌製で、車内はハ6と同様であった。
  
 ハ9/
(41-9-7)

 
ハ10(廃車後解体待ち)/(47-4-30)

 
ハ11/(43-8-30)

ハニフ21、22(ハニフ21形)/大正11年日本車輌製で、半分が荷物室のため、車内はクロスシートが4脚並び定員は16名であった。

(40-3-25)/この車両に西長岡~来迎寺間を乗車したが、ゴツゴツとした物凄い振動で、ポイント通過時は飛び上りそうな感じであった。
以上の3形式は西長岡~来迎寺間の混合列車に使用されていた。

 ホハ31、32(ホハ31形)/大正4年天野工場製のボギー車で、車内はロングシート、定員は31が100名(座席定員44名)、32が98名(座席定員42名)であった。

 
ホハ31/(40-3-25)

 
ホハ32/(40-3-25) 

ホハ33、34(ホハ33形)/昭和38年に上田丸子電鉄から同社西丸子線で使用されていたモハ3211、3212を譲り受け電装解除した。
目黒蒲田電鉄のモハ4、5(大正11年汽車会社製)が前身で、昭和17年神中鉄道に譲渡され、同社のモハ4、5となった。神中鉄道は、昭和18年4月に茅ヶ崎~橋本間で営業していた相模鉄道に買収されたが、昭和19年6月1日、同区間が鉄道省に買収されたため、相模鉄道の営業区間は旧神中鉄道の横浜~海老名間となった。昭和22年9月、上田丸子電鉄に譲渡され、モハ11、12となり別所線、西丸子線で使用、昭和25年の改番でモハ3211、3212となった。

 
ホハ34/(41-9-7)

③貨車
ワ10/明治40年新潟鐵工所製

 (47-4-30)

 ワブ1/大正4年大日本軌道製

 
(47-4-30)

 ロ101

 
(47-4-30)

 ④その他

地図上では、来迎寺~西長岡~大河津~寺泊間は路線が繋がっているが、列車の運行は西長岡~寺泊間と西長岡~来迎寺間に分離され、前者は旅客中心、後者は貨物中心であった。
運行本数の推移を見ると、昭和36年6月時点では、旅客列車が西長岡~寺泊間6往復、西長岡~寺泊新道間8往復、西長岡~与板間2往復、大河津~寺泊新道間2往復、貨物列車が西長岡~寺泊新道間2往復、西長岡~来迎寺間は9往復で朝夕の2往復のみ電車、7往復が混合列車であった。
昭和47年3月時点では、西長岡~寺泊間11往復、大河津~寺泊間、与板~寺泊間各1往復。西長岡~来迎寺間混合列車3往復。
旅客営業廃止直前の昭和50年3月時点では西長岡~大河津間6往復、西長岡~与板間3往復であった。
 

 昭和50年3月22日 王寺川駅の時刻表

長岡線の営業が振るわなかった理由は、ターミナルの西長岡駅が長岡市内中心部とは信濃川を隔てて約3.5キロ離れており、連絡バスに乗り換える必要があった。乗車された方はお判りいただけると思うが、途中駅が集落の中心部から離れていたため、乗客が集落の中心部を通り長岡駅に直通するバスに流れるのは当然であった。

 
周りに何もない越後日吉駅
 
 
王寺川駅を発車した大河津行

⑤行先板
昭和47年4月30日訪問時に撮影した行先板

長岡には昭和50年3月末、同社の栃尾線が廃止になるまで数回訪れているが、栃尾線、長岡線、当時長岡を中心に活躍していた旧形国電に魅力を感じていたからであろう。

 

 

 

 

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