土佐電鉄クハ2000、モハ1000

1961年3月18日撮影。半世紀前の写真です。

1960年同志社大学に入学、鉄道同好会に入部した翌年の3月、岡山の下津井電鉄を経由、その後一週間ほど四国を巡った時の一コマです。鉄道写真にまだ慣れていなくて、計画性もなく、ただ撮影したという一枚です。撮影記録もありません。私は安芸近くと思っていましたが、乙訓の老人の解説で、三平先生の写真と同じく手結近くだそうですね。

架線柱は両持ちですが、海側が鉄製トラス柱、山側は木製です。コンクリート防波堤に柱の基礎部分が埋め込まれています。線路と山の間の道路を利用してここまで来たのでしょう。線路を超え、海岸に突き出たコンクリート製の別の防波堤上で撮影しています。クハ2003を、そして振り返って撮影したのが2枚目のモハ1008です。2両編成です。

2枚目の写真中央には木製の架線柱が写っていました。幸い車両には掛かっていませんでしたので、あまり良いことではありませんが画像から消去削除しました。

出発に際し、若かりし頃の乙訓の老人よりNEOPAN フィルムの提供を受け、琴電、琴参、伊予鉄、土佐電のこれこれを撮影せよとの依頼を受けて出かけたものです。帰宅後は現像までして頂き、お蔭でこのフィルムは何の変形もなく現在に至っています。そして図らずも今回、三平先生の記事から皆さんのお目にかかることになりました。

土佐電鉄クハ2000、モハ1000」への1件のフィードバック

  1. 卒業に際し10科目の試験を受けたが、自分としては英書Ⅱには自信がなかった。ゼミの松山教授が退院して自宅で養生していると聞き、試験結果を聞きに言ったところ卒業OKと聞き、やれやれとなった。そこで通いなれた四国、九州、中国をU字に回り、学割とはおさらばの予定を立てた。NEOPAN SSを1箱(2ダース)買い込んだところ、就職先から呼び出しを受けた。希望通り富山勤務とするから、会社の雰囲気になじむため3月1日から大阪営業所に出社せよ、との御宣告。電車行脚はあきらめた。そこで四国へ行くというthurukame君にフィルム支給で代参をしてもらった次第。現像は彼が明徳館地下にあった生協に託している。1960年春に出来なかった600形3連の朝の急行、手結の断崖べりのうち、1箇所を撮影してくれていたのである。3連急行は後に四方君が撮影しており、プリントを頂く事が出来た。持つべきはクラブメイトである。昨年の「ぶんしゅう君」共々、お礼申し上げる。

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