信貴電の不思議によせて

京阪交野線の前身は信貴生駒電鉄であったため京阪本線とは異なる部分があった。最大の相違点は、京阪本線は軌道法が適用されていたことに対し、交野線は地方鉄道法が適用されていた。駅の構造が明らかに京阪とは異なっていた。京阪本線の駅は駅舎には切符売場と改札口があるだけで、乗客はホームのベンチで電車の到着を待つが、交野線のすべてに当てはまるかどうかは不明であるが、比較的大きい村野、交野は駅舎内にもベンチがあり、電車到着まで駅舎内で待つような構造であった。

未開業区間の私市~生駒間は、昭和50年代は奈良交通のバスが4往復運行されていたが、阪奈県境の田原地区までは京阪バスも運行され、大阪府内は京阪バスの免許路線で奈良交通が乗入れる形であった。昭和50年代前半頃まではボンネットバスで私市~八ノ坪・八ノ坪~大和田間各3往復、リヤエンジン車に変わってからは交野市~私市~山口川~大和田間直通運転で4往復となった。勤務場所が京阪大和田駅近くの頃、気が向いた時に大和田駅を18時30分頃発車する交野市行の最終バスに乗り、交野線経由で帰宅した。

現在奈良交通は田原台1丁目~私市駅は廃止、京阪バスは交野市~大和田間の直通運転は取り止め、交野市~田原台1丁目間土休日のみ2往復と路線免許維持路線のような運行になっている。奈良交通の生駒~田原台1丁目間は頻繁に運行されているが、未開業区間を走破できるのは土休日のみである。

話がバスにそれてしまったが、もし戦前に予定通り生駒~私市間が開業し、かつ順調に経営されていれば、枚方~生駒間は京阪の準幹線となっていた筈で、更に枚方~高槻間が開業されていれば、東武野田線のような感じになっていただろう。

初めて生駒線を訪れたのは、近鉄合併直後の昭和39年12月21日(合併は同年10月1日)で、目的は木製車モ200形の撮影と乗車であったが、生駒駅に停まっていたのはモ660形であった。モ200形は同年10月1日の合併時に引退したようであった。

昭和44年9月21日、奈良線、京都線、橿原線、生駒線等の600Ⅴ区間が1500Ⅴに昇圧されると、旧大和鉄道→信貴生駒電鉄(大和鉄道は昭和36年10月1日信貴生駒電鉄と合併)の田原本線と共通で、モ400形+ク300形の2連に変わり、モ400形+ク300形が廃車になると元奈良線の特急車モ820+ク720が主力となり、ラッシュ時にはモ800+サ700+ク710+モ800の4連が加わった。
その頃の生駒線を写真で振り返ってみた。

信貴生駒電鉄デハ3→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和元年、信貴山下~生駒間の開業時に田中車輌で新製された半鋼製車で4両(デハ1~4)在籍した。半鋼製車としては初期の製品である。
近鉄と合併時に継承されず廃車になったが、デハ3のみ機器扱いで玉川工場の入換車として再記した。正面の貫通扉は改造時に設置されたもので、オリジナルは非貫通の正面3枚窓であった。

近鉄モ665→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和16年参急デニ2000形を名古屋線転出時に元の足回りを流用して作られた車両で、モ661~665の5両在籍した。ラストのモ665は昭和39年に荷電代用車となり、廃車後玉川工場の入換車になった。生駒線、田原本線でよく使用され、1500Ⅴ昇圧時にモ661→ク516、モ662→モ410、モ663→モ411、モ664→ク518となり、モ410、411は引き続き生駒線、田原本線で、ク516、518は京都線、橿原線で使用された。

モ409+ク309/南生駒~一分 (53-12-9)
元奈良電のデハポ1300形で、昭和32年に日本車両で新製された全金属製車であるが、電装品、台車は電動貨車デワポ501とデトボ351のものを流用している。
近鉄合併後モ455形455、456となり、更に昭和39年にモ455の電装品と台車の交換とモ456を電装解除してク355とする工事が実施された。昭和44年9月の昇圧時にモ400形とク300形に編入され、モ409+ク309となった。車体が比較的新しかったため、他のモ400形は昭和52年までに廃車されたが、その後も使用され、昭和62年に廃車になった。晩年は生駒線にこの車両専用のダイヤが引かれていた。

モ404+ク304/西田原本 (49-6-16)
モ404は元モ672で、昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1102として作られた車両。ク304は元ク574で昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1101として新製。昭和32年に電装解除してクハポ704となった。

モ405+ク305/新王寺~大輪田 (50-1-15)
モ405は元モ641で、昭和24年近畿車両製。前述のモ604と似ているが、こちらは近鉄のオリジナル車両である。ク305は元ク591で昭和17年木南車両で奈良電鉄クハポ651として作られた車両である。

モ824+ク724/南生駒~一分 (53-12-9)

モ822+ク722/池部~箸尾  (53-12-9)


昭和36年近畿車両で奈良線の特急用として新製された車両である。新生駒トンネル開通により大型車が奈良までは入れるようになると京都線、橿原線に回り、京阪三条乗入れにも使用された。奈良線、橿原線の車両限界拡大後は生駒線、田原本線で使用されたが、昭和59年から南大阪線6800形ラビットカーの台車、主電動機を利用して狭軌化し、伊賀線に転属した。

信貴電の不思議によせて」への2件のフィードバック

  1. 藤本先輩 信貴電に関する解説ありがとうございます。生駒線内の車庫は南生駒にありました。また、信貴山下にもあり、ちょうどいまの図書館あたりでしょうか。私の持っている2万5千分の1地形図に信貴山下の車庫は記入されていますが、車庫が記入されていません。昭和22年第2回修正測図とありますが、記入漏れかこのときはまだ車庫はなかったのでしょうか。子供の頃の記憶では信貴山下には車庫の建物がありましたが、車庫ではなく車両の留め置きのような感じでした。記憶があいまいなので間違っているかも知れません。現在では信貴電の雰囲気があるのは平群駅の生駒方面ホームの屋根が当時のまま現存しています。元山上口から生駒方面にある橋脚の写真も含めてまた投稿したいと思っています。

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