明治村の旧新宮鉄道客車

一昨日の投稿で写真を添付するのを忘れた。まさしく加齢現象に外ならず、我ながら情けない。改めて明治村で毎日働く2軸客車ハフ13、14の54年前の姿をご覧頂く。

撮影は1955年3月26日、奥羽本線湯沢駅=羽後交通雄勝線の発駅で、当然電車に牽かれていた。1942年国鉄からハ13、14を譲り受けたもので、前身は新宮鉄道ハ13、14、新宮鉄道工場大正元(1912)年11月製とある。新宮の開業は同年12月2日で、南海鉄道から譲り受けた2軸客車と共に、開業時の車輌であった。この年は7月30日までが明治だったから、明治村での動態展示は許容範囲内であろう。

新宮鉄道は孤立していたため昭和に入っても自連換装がなされないままに終始し、1934年7月1日買収で紀勢中線になる。新たに船で送り込まれた機関車、ボギー客車、ガソリンカー等も螺旋連環連結器に付替えており、その中には重見式給水暖め器を装着したC11もいた。

その後紀勢西線と接続し、当然自連化されたが、旧客車は螺旋連環式連結器のままで放置されていた。戦時体制下、車輌不足で旧新宮の2軸客車は天塩鉄道、伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車法勝寺電鉄)、大分交通等に再起。2輌が雄勝鉄道(1944年2月4日横荘鉄道に合併、同年6月1日羽後交通に改称)にやってきたのである。

ついでながら明治村で現役を続ける2軸客車は3輌で、もう1輌のハフ11も上記ハ13、14と共に、1973年4月1日の雄勝線内燃化(先に廃止した横荘線のガソリンカーやDLを投入し電車を廃止)後明治村に引取られ、静態展示の後「陸蒸気」開通で復活し今日に到っている=明治村に来て実に40年以上になる。

先日休んでいたハフ11は、青森鉄道ハ4→高畠鉄道ハ2→雄勝鉄道ハフ11という経歴で、かなり改造され原型が定かでなが、1908年天野工場製。機関車とも、螺旋連環連結器は淡路交通に残っていたものを譲り受けた由。

明治村の旧新宮鉄道客車」への1件のフィードバック

  1. 元新宮鉄道の大分交通耶馬渓線ハフ27は戦後再起する際に枝光の九州車両で
    更新工事を受け耶馬渓線路線短縮の昭和46年まで活躍しました。
    特筆したのはその後、青の洞門の守実側出口より500mほど離れた
    旧国道212号線脇にある広場公園でしばらく静態保存されていたからです。
    昭和52年頃、私が気づいたときには窓ガラスは全部割られ室内に
    入るとぼろぼろの状態でした。
    この時に九州車両の銘版に気づいたしだいです。
    その後一旦見兼ねた地元有志で綺麗に整備されましたがいづこの時代に
    姿を消したか、私が九州を離れて大分経って気になり、再び現地を訪ねたとき
    には跡形もありませんでした。

    中津郊外のキシャポッポ食堂の保存車らに比べれば不遇ですが、
    大分交通の木造客車の存在に目覚めた昭和50年前後に最後の実物を
    見ることが出来たのは、鹿児島交通の廃車体群とともに大変幸運な
    体験であったと30数年経ち、しみじみ思います。
    それは湯口兄ら記された探訪記のくだりを読んで、木造の小型車両の
    頼りなさと反対に家具や家に近い味わいを、そんな空気を少し吸い込んだ
    ことがあるという、プリミティブな体験。
    鉄道趣味発芽の揺籃って、そんなもんじゃないでしょうか。

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