信貴電の不思議 改訂版

デジ青掲示板のトラブルにより「信貴電の不思議」が消えてしまいましたが、原稿が残っていましたので復活することにいたしました。ただ、そのままでは芸がないので追加して「信貴電の不思議 改訂版」としました。

 信貴山下駅から先の第2期工事でも複線化工事を行ったことを示すもの以外に、天理参考館で購入した絵葉書に信貴山下駅で撮影された51形53号電車の写真があり、これがどのような電車か調べてみました。そして、平群駅にある信貴電の名残、東ケーブルの写真などを追加しました。

彼岸花の咲く頃
彼岸花の咲く頃 平隆寺前を行く

 それでは消えてしまった部分から。

  近鉄生駒線の電車で信貴山下から王寺に行く時、見ていると大和川橋梁の橋脚が複線用となっていて、これが以前より不思議に思っていました。子供の頃、祖母に連れられてよく信貴山詣でに行きました。行きは大阪側からですが帰りはいつも東ケーブルで奈良側の王寺駅より関西線の汽車です。何回か乗っているのですが複線になっていたという記憶がなく、今に至るまで単線です。いったい、どないなっているのかわかりません。

橋脚が複線化できるようになっている。

左の写真でご覧のごとくです。

 それでは信貴生駒電鉄について調べたらよいのではと思い、まず社史を探してみました。図書館にはこのような文献が蔵書されていると考え、インターネットで各図書館の蔵書検索を行いました。その結果、奈良県立図書情報館にありました。

 

 

 王寺の町に行ったついでに、王寺町立図書館に寄りました。館内で「信貴生駒電鉄社史」を蔵書検索したら書庫にあることがわかりました。閲覧してみますと、建設当初から将来に備えて用地は複線分を買収したことが記載されていました。また、大和川橋梁も複線用として建設したと書かれていました。

 

 ただし、右の写真にある橋脚は建設当初のものかどうかわかりません。社史には次のように書かれていました。

「大和川橋梁は全長126メートル、橋脚、橋台は複線用として建設し、上路鋼板の15.24メートル桁5連、6.2メートル桁6連、計11連を架設、松尾、日本橋梁両社の施工であった。」

 

 

 写真の橋梁と見比べてみましたが記載内容をどのように理解したらよいかわかりません。私の持っている「民営鉄道の歴史がある景観Ⅰ」に近鉄道明寺線の大和川橋梁が昭和11年に橋脚を補強し、翌年にコンクリートを巻き立てたと記載があり、ひょっとしたらこの橋梁もこの様なことがあったのでしょうか?

 

 複線用になっている理由がわかったのですが新たな不思議が・・・。

どなたかご存知の方は教えていただきたいと思います。

 今のところ、生駒線の複線化は東山駅から北側では部分的に複線になっていますが、南側の王寺方面は現状ではまだまだといえます。しかし、建設当初の複線用地は確保されています。

 

 右の写真は勢野北口の駅です。ご覧のように複線用地が確保されています。また、下の写真は王寺側にある道をまたいでいる橋ですが、複線部分があります。第1期は信貴山下まででしたが、生駒までの第2期工事でも複線化が出来るように建設されたのでしょうか?

 

 

将来の複線化の為に造られた橋台(勢野北口駅)

 社史には敷設免許までの経緯が書かれてありました。大正7年11月に信貴鉄道が申請し、すでに田原本線を開業していた大和鉄道も翌年の6月に申請をしました。免許を得るために競い合いましたが、信貴鉄道は先に申請したことと生駒地方の開発を強調して大正8年8月27日付で免許を獲得したとあります。

 

 

 

 信貴山には「信貴山縁起絵巻」で有名な朝護孫子寺への「信貴の月参り」として周辺各地から多数の参詣者が来ていたようです。私も冒頭に書いたようにこの「信貴の月参り」をしていたことになります。鉄道開通以前は当然ですが徒歩で信貴山に登山していました。明治25年に大阪鉄道(現在の関西本線)が奈良まで全通すると、王寺駅から徒歩で信貴山へ参詣していたようです。

信貴山朝護孫子寺本堂

 本堂はご覧のように清水の舞台のようになっていて、ここからは奈良盆地が一望できます。なかなかの絶景です。また、大門池にかかる開運橋は日本最古の「カンチレバー橋」で昭和6年完成しています。そして、これは国の登録有形文化財になっています。また、この大門池はダムでせき止められた池で、いまはコンクリートのダムになりましたが、以前はアースダムと言われる土で造られたダムです。

大門池にかかる開運橋

 これは1128年に完成して、高さは32mもありアースダムとして当時は世界最高でした。完成した時代はちょうど平清盛が10歳の頃になります。

 大正3年に大阪電気軌道が奈良まで開通したので生駒と王寺をつなぐ交通機関の要望があったのと、信貴山詣での利便をはかるために計画されたようです。社史には大正7年申請路線図が記載されており、これは興味深いものです。この図を頼りに2万5千分の1地形図(私が所有している大正11年測図、昭和22年第2回修正測図そして昭和31年に行政区画の修正した地形図)に想像してルートを記入してみました。

  ここで注目すべき点は申請が降りなかったが、大正8年6月に申請した大和鉄道の計画です。王寺から電気鉄道で信貴山に登るという計画です。地図からみると王寺の町が標高35mぐらいで終点としているところは標高250mぐらいです。高低差は215mとなります。この高低差を登る登山鉄道が可能かと考えてみると大正8年6月に箱根湯元から強羅までの箱根登山鉄道が開業していることから、まんざら不可能ではなかったと思われます。もしも、大和鉄道に申請が降りていたならどうなっていたでしょうか。

右の写真のような電車が走っていたかもしれません。また、実際に敷設された時、ケーブルとの接続駅が勢野でなく勢野と坂上(さかねと読む。)の中間位置に出来たのは両方の地域から利用できるようにと考えたのではと思います。これが現在の信貴山下駅です。

いまでは住宅街ができたので申請時の駅ができると思われるところに勢野北口という駅ができています。

 申請が降りてから信貴鉄道は信貴生駒電気鉄道と改称して資金調達し、敷設工事を行い、1年1ヶ月で開業したとあります。そして大正11年5月16日に開業しました。春の行楽シーズンに間に合うようにと関係者全員が一丸となってがんばったと社史には書かれています。この鉄道の開業にたずさわった人々は計画申請から建設、開業までの並々ならぬ努力があったということが社史から読み取ることが出来ます。この鉄道によって、この地域を活性させようとする意欲が感じられます。

 ところで、地図に書き込んだ申請ルートは社史の図より私の想像したもので、箱根登山鉄道との関連についてもあくまで推定です。ほんとうはどうであったのでしょうか。タイムスクープハンターの沢嶋雄一さんに取材調査を依頼したいものです。

 これから新たな追加分となります。

さらに、信貴山下駅から生駒側は同じように複線化が出来るように建設されていたのか確認するため元山上口駅から北側にある鉄橋を調べてみることにしました。まず元山上口駅に行き、そこから線路に沿った道路があるので東山駅の方へ歩いて鉄橋が見えるところを探すことにしました。

 この元山上口駅までが大正15年10月21日に営業運転が開始され、さらに新生駒駅(仮駅)までは昭和元年12月28日から、そして現在の場所になる大軌生駒駅には昭和2年4月1日から営業開始となっています。

  左の写真で複線部分が造られていることがわかります。これからも複線化を前提に第二期工事も実施されたことがわかります。写真の右側に写っている綱は勧請綱といって五穀豊穣、子孫繁栄などを願った民俗行事の一種です。

 

                                                                            

 

 

 

 

 

 

大和川の橋脚と同じように複線用の橋脚となっています。そして勧請綱が並んで川を渡っています。いつも電車でここを通ると縄が掛かっているのを見て、何かなと思っていました。飛鳥川の上流によく似たものがあるのを知っていましたので、もしかすると同じ様なものではないかと思っていました。今回の撮影行で飛鳥川上流と同じ民俗行事のものとわかりました。そして、近くには天平18年(746年)創建の金勝寺があります。紅葉の時の写真が境内に展示してありましたが、なかなか見事な紅葉でした。  

 さて、元山上口駅の王寺側にある平群駅ですホーム上屋ですが信貴電時代の状態でご覧のように生駒方面のホーム屋根の軒下はX模様になっています。これは信貴電の各駅で見られたもので、天理参考館で買った昭和14年に撮影された信貴山下駅に停車している51形電車の写真に写っているホーム屋根の軒下も同じX模様になっていました。

平群駅の生駒方面ホーム

信貴電当時の上屋のあるホームに入る生駒行の電車。ここで王寺行と交換

生駒行が発車して遠ざかって行きます。王寺行の乗客は踏切を渡って改札口へ

  

 信貴山下駅というと、家でネガの整理をしているとケーブルの窓から撮った駅の写真がありました。1983年8月に撮ったものです。夏休みですので子供を連れて信貴山に行った時のものです。

信貴山下駅を発車したケーブルカーはゴトンゴトンと登っていく。

  この時は信貴山下駅では列車の交換はなかったので手前のホームだけ使用していました。線路をくぐる地下道は残されていますが、使用しているホームから地下道に降りる階段は閉鎖されホーム面にされていました。現在は列車の交換を行っていますのでこの地下道は復活して使用されています。この地下道は開業当初からのもの使用されているで、祖母と信貴山下駅から王寺行に乗ったときは地下道を通ったことを覚えています。

左の写真は信貴山から降りて来たケーブルとの行き違いです。乗客は結構たくさんの人が乗っています。夏休みだからでしょうか。                             

 

 

 

 終点の信貴山駅です。

ケーブルカーに乗っていた乗客が降りて改札口へ行きます。

写真の奥には巻き上げ機が設置されている建物が見えます。

 

 

そして左の写真はその建物です。木造ですので開業当初のものでしょうか。下の写真が現在の信貴山下駅です。

 

 

 

 

 平群駅のところでも述べた天理参考館で買った絵葉書の信貴山下駅に停車している電車について調べてみました。その絵葉書から左のような絵を描いてみました。

 絵葉書では足回りがわかりにくかったので、「木造車両と単車」に載っている写真も参考にして書いてみました。

 この電車はデハ51形53号車で現在の阪急千里線の前身である北大阪電鉄から譲りうけたものであることがわかりました。ご覧のようにポールで連結器がバッファー付きのスクリュー連結器になっていること、そしてどうもヘッドライトがありません。交通科学博物館と大阪府立中央図書館に行って、この電車に関連する文献、雑誌記事をいろいろと調べてみました。

 「小林庄三著 木造車両と単車 トンボ出版」によるとはじめからヘッドライトがなかったことがわかりました。この本には昭和34年1月27日に信貴山下駅で撮影された廃車留置の写真があり、よく見てみるとテールライトらしいものが見られます。ところで、このヘッドライトのことを調べてみると昔は脱着式ヘッドライトが使われていたことがあったようで、大正時代の電車の写真を見るとヘッドライトのないものがあります。もしかしたら脱着式ヘッドライトかもしれませんがよくわかりません。わかっていることから想像するしかありません。これも面白いものです。

この電車は北大阪電鉄のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたとありました。北大阪電鉄は大正12年に新京阪に吸収されました。昭和3年の1500V昇圧対象外となり、3両は信貴生駒電鉄に、そして残りの5両は愛宕山鉄道へと働き場所が変わりました。信貴電のデハ51形は社史によると昭和33年に廃車となっています。そして「木造車両と単車」の本には昭和34年1月27日に撮影された信貴山下駅に廃車留置されている写真が載っていました。ところで愛宕山鉄道の5両はというと、愛宕山鉄道の廃止により再び働き場所が変わり、2両は京福電鉄の福井に行きホサハ51形付随車として、残りの3両は京阪大津線で京阪1型として再び京阪の電車となって働くようになりました。この京阪1型については浜大津のイベントの時に見た鉄道ピクトリアルに写真が載っていました。

 ところで、この電車はもうひとつのエピソードがあることがわかりました。この電車について調べていく中である雑誌の記事にたどり着きました。それはレイルNo.49に載っていた『クラシカルフィルムに秘められた鉄道シーン ~映画「新しい土」の検証~ 下嶋一浩』でこの映画に10秒ほどの乗車シーンに写っていたのを詳細に書かれていました。交通科学博物館でこの記事をたいへん興味深く拝読しました。この映画は日本初の国際合作映画で日本側の監督が伊丹万作氏、ドイツ側が山岳映画の巨匠といわれたアーノルド・フランク氏で、あの女優原節子さんが16歳の時の映画であることがわかりました。そして、この映画は今年、75年ぶりに劇場公開されています。また、DVDもでているようです。

 まさか、信貴電沿線に住むとは思っていませんでした。これも子供の頃、信貴山詣でのご縁なのでしょうか。まだ、ところどころにのどかな風景が残る信貴電沿線(近鉄生駒線)です。

山間部を走る近鉄生駒線の電車(東山-元山上口)

 

信貴電の不思議 改訂版」への4件のフィードバック

  1. はじめまして
    道明寺線の大和川橋梁は建設当時は珍しい鋳鉄管柱でした、補強の為コンクリ-トで巻きました。鉄筋も入ってますが古レ-ルが鉄筋、鉄骨代わりになってます

  2. 有田様 コメントありがとうございます。私の持っている「民営鉄道の歴史がある景観Ⅰ」に道明寺線大和川橋梁の写真があり、橋脚が丸い柱になっています。鋳鉄管を柱にしているとは知りませんでした。教えていただいてありがとうございます。この写真は明治36年頃と推定されると書いてありました。ところでコンクリート建造物で日本で古いものを調べると疎水に架かっている橋が1903年(明治36年)にコンクリートで造られたものであることがわかりました。そうすると、生駒線の大和川橋梁は開業当初の橋脚である可能性があると推定されます。このことに間違いがないという証明が出来ればよいのにと思っています。

  3. 近鉄東信貴鋼索線の信貴山下駅から信貴山駅間が廃止になったのは今から40年前の昭和58(1983)年08月31日(水曜日)が最後の営業運転でした、ちなみに近鉄東信貴鋼索線が廃止後は何に変わりましたか教えてくださいお待ちしてます。

    • 巽孝一郎さま 閲覧いただいてありがとうございます。東信貴鋼索線が廃止になってから奈良交通バスが走っています。廃止直後は信貴山下から信貴山でケーブルの駅のところが終点で駅舎もそのままバス停として使っています。その後、バスは延長されて信貴山門までになっています。また王寺駅(北)まで走っているので便利です。ちなみに信貴山門バス停は西ケーブルからの近鉄バスの終点と同じ所で、かつて信貴山上を走っていた信貴山急行電鉄の信貴山門駅です。西ケーブル側は高安山駅で、今でもホーム跡が残っています。もし行かれるなら王寺駅へ山から下るのがバスの窓から、特に一番前から見る景色は絶景です。急坂を下るのはなかなかスリルがあります。

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