信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その1

近鉄生駒線の大和川橋梁の橋脚が複線用となっていることから始まった「信貴電の不思議」はさらに芋ずるのごとく次から次へと「信貴電の不思議」が出現した。天理参考館で買った絵葉書にあったデハ51形の仲間が池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄、そして水間鉄道などにも同型車があったこと、そして遠く新潟県の蒲原鉄道にもあったことがわかった。そして、デハ51形が走り出す前の開業時に走っていたデハ100形は日本電機車輌株式会社という謎めいた会社に発注されたが当時の経済環境から自社製造となった電車である。このデハ100形と日本電機車輌株式会社については調べれば調べるほどナゾの深みにはまっていった。そして、このデハ100形については当時としては画期的と思われる村田式台車と言われる台車をはいていたという。とりあえずはこの村田式台車について数少ない資料から考察してみようと思う。

考察するにあたって、私の手元に村田式台車に関する資料として以下のものが手に入れることが出来た。ほとんどが図書館などの複写資料であるが鉄道史料第130号については書店で購入した。

1.特許第29813号 明細書 車台動揺防止装置

2.奈良県公文書 大正10年信貴・生駒電気鉄道 土木課

3.鉄道史料第98号 大正期・大軌関連資料を探る(3)

信貴生駒電鉄創業期の車両について   今井健夫

4.鉄道ピクトリアルNo.727

信貴生駒電鉄開業時の車輌101形を探る  吉川文夫

5.鉄道史料第130号 目蒲・東横 戦前期の車両  高山禮蔵

6、DRFC OB会の長老様より送っていただいた写真と図面のコピー

最近は公立図書館などがネット上でデジタル化された文献などが閲覧や文献の検索ができるので便利である。各図書館で必要とする文献が蔵書されているか調べて、蔵書があればその図書館に行けば目的の文献が閲覧できるのでたいへんに助かる。便利になったものである。上記の1番目の特許明細書と2番目の公文書にあった図面を主にし、その他を参考文献として考察をおこなった。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

特許 車台動揺防止装置とはどういうものか?

まず、車台動揺防止装置の特許明細書から読み解いていこうと思う。これは単台車で出願されたもので、特許明細書の表題は下記のように書かれている。実際は縦書きである。

特許第29813号 第46類 出願 大正5年7月5日

特許 大正5年7月25日

名古屋市南区熱田東町字玉ノ井6番地

特許権者(発明者)内藤春次郎

名古屋市南区熱田東町字玉ノ井63番地

特許権者(発明者)村田利之助

明細書

車台動揺防止装置

このあとに発明の目的などが図面も含めて記載されている。そしてこの特許の発明者はふたりとも名古屋の熱田神宮近くの玉ノ井に住んでいたようである。現在の名古屋市熱田区玉ノ井町である。この玉ノ井町は熱田駅の西北西方向すぐで、そして日本車輌製造株式会社の北西方向に約600mの位置にある。

さて、本題のこの特許のことであるが最初に発明の性質とその目的の要領が書かれてある。これをわかりやすく書くと次のようになる。

この発明は車台の改良である。車台のフレーム下部に取り付けてあるシャフトの両端にアームが取り付けてある。このアームの働きにより運転中の線路の不備によって起こる車体の上下動を車体前後で同時に同じ上下動をするようにする。その目的はフレームと車体が常に平行に保ち、車体の波状動を防止し、これによって乗り心地を良くすることである。そして構造を簡単にして低コストにて製作することにある。

図1にあるような走行中に前後で揺れ方の違う上下動をすると床面が傾斜し、乗客は不安定な姿勢になる。これを車台動揺防止装置で同じ上下動にすることで床面を平行になるようにする。これにより乗客が不安定な姿勢にならないようにすることで乗り心地が良くなるという。すなわち電車の走行中に床面が上下動はあるが、傾斜しているのではなく常に平行であるので乗客の姿勢が安定しているということらしい。車体が波間に漂う小船のような揺れを防止するのを目的として発明された装置であることがわかる。

車台動揺防止装置の目的

図1.車台動揺防止装置の目的

明細書はこの発明について詳細な説明が図面とともに書かれてある。わかりやすくする為に図面から図2のような実体図を描いてみた。これにより説明したいと思う。従来の単台車の状況や発明した装置の動作説明は出来るだけ明細書の内容をわかりやすい言葉に置き換えたものにした。それはよく読むとちょっと変だと思うところがあるが発明者の考えを知るには必要と考えたからである。

車台動揺防止装置(単車)

図2.車台動揺防止装置略解図

まず説明では従来の単台車での運転中の状況について書かれてある。それは軌条の一部分が低下しているところを通過すると、車輪は軌条に沿って下がるとフレームと車体も同じように急激に下降する。その時、一方のスプリングのみ大きい重量を受ける。それによってこのスプリングはもう一方のスプリングに比べてタワミが大きくなり、車体の波状動を増大する。これが従来の台車の欠点であると発明者は考え、車台動揺防止装置を発明したということである。

 この発明された装置であるが、図2と写真1の従来の単台車と見比べてみるとどの部分に、この装置が取り付けるようにしたかがわかると思う。

 N電単台車

                   写真1.従来の単台車(N電)

 その装置を詳しく説明すると、図2においてフレームにブラケットが取り付けられている。シャフトがブラケットに取り付けられており、このシャフトはブラケットの軸受で遊動(回転)するようになっている。このシャフトにはキーで固定されたアームが取り付けられている。そして、このアームはロッドでトップコードと連結されている。

それではこの車台動揺防止装置の動作説明を行う。図2において何れか片方に偏った荷重が加わり、片方のスプリングにタワミが発生する。このとき、トップコードよりアームに連結したロッドが下降する。これによりロッドがアームを衝いて、そのアームが動くことによりシャフトが回転する。シャフトには他方のアームが固定されている為にこのアームも連動して同じように動く。そしてこのアームに連結されているロッドが引き下げられる。これにより他方のスプリングには同じタワミが起こる。このようにして車台の前後どちらか一方に荷重が加わるときにアームの働きによって前後同一荷重となる。また、スプリングのタワミを調整してフレームと車体を平行に保つ。これによって車体の波状動を防止して乗客を常に安定した状態でいることが出来るとなっている。そして、構造が簡単なために低コストで製作ができ、従来の車台にも容易に装置を取り付けることができるとある。この特許の範囲はシャフト、アームの回転により一方の荷重を他方に伝えてスプリングのタワミを同じにする装置とし、これを車台動揺防止装置としている。

車台動揺防止装置模式図

図3.車台動揺防止装置模式図

図2にあるロッドは車体に固定されているので車体の一部分と考えて、この装置の模式図を考えてみた。それが図3である。これから考えると車台動揺防止装置(図の赤で示す部分)は車体を常にフレームと平行になるように保持していることになる。このために黄色の矢印で書かれた揺れは規制されて、上下(青の矢印)の揺れのみになると考えられる。すなわち、フレームと車体はこの特許の目的とする平行状態を維持できることになる。

この四輪台車の車台動揺防止装置は実際にあったのか?

ところでこの車台動揺防止装置は実際に製作され電車に取り付けられていたのだろうか。まず、特許と同じ4輪の単台車に取り付けられたものについては信貴生駒電気鉄道に関連した公文書に貨車認可申請書(大正10年7月25日申請)の中に「特許29813号車台動揺防止装置電車トラック」と題した単台車の図面がある。下の図4が公文書にあった図面より主要部を中心に作成した図面である。この公文書は奈良県立図書情報館に保管されていて、さらにデジタル化されてインターネット上で公開されている。

信貴電単車 Model (1)-2

図4.車台動揺防止装置電車トラック概略図

この図面には寸法一覧表が記入されている。それを書き出したものが表1である。車輪径、ホイルベース、軌間の寸法を変えた組み合わせで台車寸法の変更される部分が書かれてある。申請された信貴電の電動貨車は車輪径33インチ、ホイルベース6フィート6インチ、軌間4フィート81/2インチの条件でそれぞれの寸法が決まることになる。

図面寸法一覧表  電動貨車は社史によると大正15年に京阪電鉄から借り入れたデト51形2両が存在していた。しかし、車台動揺防止装置を取り付けた電動貨車は大正11年1月14日付でこの申請書は認可されたところまでわかっているが、その存在は定かでない。鉄道史料第98号に今井氏も書かれているが「謎の有蓋貨車」である。それではこの特許の機能が実際の図面にどのように反映されているのであろうか。

信貴電単車 詳細図                        図5.車台動揺防止装置詳細図

図5は公文書の図面より装置部分を拡大して作成したものである。ただし、古い図面であるので不鮮明な部分があるためどうしても確認できない部分があった。その為に寸法的には異なったものになってしまっているが、できるだけ形状は忠実に書いて装置の全容については理解できるようにした。

この図4と特許の説明図である図2を見比べてもらうとわかるが、ブラケットの形状は少し異なるがほとんど同じであることがわかる。また、シャフトを支持するブラケットも三ヶ所での支持でこれも同じである。よって、この単台車の図面は特許図面を実際の車両寸法にあわせて設計されたものであると考えられる。そしてこの装置の動作は図6のようになる。図4でわかるようにロッドとアームはトップコードとフレームの間にあるスプリングの所にあり、片側4ヶ所で左右を合わせて8ヶ所となる。片側4ヶ所がシャフトでアームが固定されてつながっているから、車体が上下した時に同じ変位量で同時に上下動することになる。

車台動揺防止装置動作図                図6.車台動揺防止装置動作図

ロッドが車体に固定されているのであるから、理論的には車体のどの位置でも同じ変位量で上下動すると思う。ところが実際にはそのようにうまくいくのだろうか。そして、その為には図6の赤丸で囲まれたアームとロッドのリンク部分で、接続しているピンの摺動がスムーズでなければならない。この装置の成否はこの点にかかっているのではないかと思う。さらに連続運転になると摺動部の磨耗などにより動作不良が起こると考えられ、車両保全が従来の車両より保全コストが増えるのではないかと思う。

ところで、申請書の図面をよく見てみるとフレームが写真1にあるN電単台車のフレームが一体のものであるが、図7でわかると思うがフレームは前後の軸受部分を2枚の帯板で接続された構造になっている。

信貴電単車組立説明図

図7.信貴電単車組立状態詳細図

このような構造にしているのはブラケットを取り付ける為によるものだろうか。強度を考えると少し不安があると思う。

車台動揺防止装置と、これを取り付けた単台車の考察を行ったが、この台車が存在したかどうかはわからないようである。そして申請された信貴電の有蓋電動貨車もあったかどうかわからない。本当のところはどうだったか、わからないだらけである。

ではボギー台車はどうであったか。                     つづく

 

信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その1」への10件のフィードバック

  1. どですかでん様
    大研究論文恐れ入ります。少しはこういうことも勉強しないといけないなと日頃思っているうちにお迎えが来そうな齢となりました。先日、このあたりを徘徊し、どですかでんさんの撮影とほぼ同じ位置で近鉄生駒線電車を撮影してきました。写真左手の高台にある三郷小学校にはC57160が保存されており、こちらも表敬訪問してきました。信貴山という有名な山も近いのですね。また、同じ近鉄なのですが、JR王寺駅の両サイドに近鉄生駒線(駅名は王寺)と田原本線(駅名は新王寺)のターミナルがありました。それぞれ歴史があり、今日の大近鉄になっているのだろうと想像しました。なお、田原本線の線路際の舟戸児童公園にもD51895が保存されており、近い場所に2台も保存されているのは全国的に珍しいと思いました。

  2. 内藤春次郎は1883年兵庫県の旧家に生まれ、篠山中学校卒業、山陽鉄道汽車課、鉄道省工務課に勤務していました。1926年日車に入社し技師兼丸ノ内出張所長を長らく勤めた、いわば日車の名物男です。業務は日車本店(名古屋)、東京支店を問わず、車輌の設計申請時、監督局技術課に乗り込んで書類や図面類の訂正、修正等の代理処理(納入会社社長等の委任状処理)に徹し、一人では八面六臂の活躍でした。認可当局側も彼が来ると処理が早くすぐ解決するので歓迎したようです。それというのも、設計や設計変更(改造)は、その車両を使う鉄軌道側が申請するシステムだからですが、新車の場合はほぼ全部メーカーがすべてを委任状で代理処理していました。

    彼はどですかでん氏投稿の特許第29813号「車台動揺防止装置」のほか、「制動機自働調整装置」でも特許を取得し、これは発明者内藤春次郎、特許権者日本車両製造株式会社となっています。他にもあるのかもしれませんが、小生はこの2件しか知りません。さらには概ね大正期までは特許権者は発明者でしたが、昭和期以降は自分の務めている会社を特許権者とするのがほぼ常識になっています。

  3. 準特急様
    コメントありがとうございます。王寺周辺に来られたようで、うれしく思います。三郷小学校にはC57を保存されていますが、これ以外に三郷北小学校には廃止された東ケーブルの車両が保存されています。2代目のケーブルカーで廃止されるまでがんばっていました。また、写真にあった大和川橋梁については公文書に図面がありましたが、王寺側の橋脚の数が現在と異なっているのでいまだに「信貴電の不思議」です。これも調べてみなければいけません。いまはボギー台車の図面を作成中です。図面を作成しながらあれやこれやと考えている次第です。まとまるのがいつになるかわかりませんが、とにかくやってみようと思っています。 

  4. 湯口先輩
    コメントありがとうございます。内藤春次郎さんのこと、興味深く拝読しました。1926年(大正15年/昭和元年)日車に入社したのであれば特許を出願したときは山陽鉄道か鉄道省に勤めていたことになります。そうすると私が日本電機車輌株式会社や村田利之助さんについて想像推理していたことを考え直さないといけなくなりました。しかし、重要な情報ですのでしっかりと考えていきたいと思っています。

  5. 尾崎寛太郎様
    コメントありがとうございます。2が月ほど前の投稿に対して車台動揺防止装置の特許がアメリカで取得していたという貴重な情報を教えていただきありがとうございます。日本で取得した特許を海外で取得した事例は他にあるのでしょうか。とにかく、いろいろなことが考えられ楽しみです。

    • 私が知るかぎり、鉄道に関する特許で最古ではないかと思います。
      戦後日立製作所など車輌メーカーが輸出車両に関わる特許が散見されます。
      国鉄の米国での特許はEF66の中空軸駆動が最初のようです。

      日本の鉄道は海外技術の移入で発展しています。ある意味パクリ。
      日本の鉄道技術はガラパゴス化していたので海外での特許など考えてもいなかったのでしょう。

  6. 尾崎寛太郎様 ご返事ありがとうございます。この特許が海外で取得した最初の鉄道関係特許であれば、どのような経緯で、どのような理由でアメリカの特許を申請したかということが気になります。まさか、アメリカに台車を輸出や、技術供与をしようとしたのではないと思いますが。当時はむしろアメリカブリル社から台車を輸入をしたり、真似をして台車を製作していたようですので、今から考えても革新的なことをやったと思います。内藤春次郎氏と村田利之助氏は革新的技術者、経営者ではないかと思えてなりません。村田式台車を考察して2回に分けてまとめていく過程で、大正時代は竹久夢二の美人画を思い出すような甘美な時代というイメージが強かったのですが、その反面で今の世の中以上に革新的なところを感じました。このアメリカ特許取得はそれを感じさせるひとつの事例ではないかと思いました。それにしても大正時代の方が現在より日本の活力を感じてしまいます。

    • 今回の特許公報は、ブリル台車の特許を調べている時に見つけ、驚愕を覚えました。
      発明者の名前を検索したところこのサイトに辿り着きました。

      米国に特許申請した理由を知りたいところです。

      内藤、村田氏が個人で申請したとしても、過去の特許を調べたり、申請手続きに多額の費用がかかったと思います。
      当時、日本車輛は輸出できるまでの力はなかったと思われ、ビジネスになるとも思えません。
      勝手な推測ですが、ブリル台車に比べ振動性能が向上したため、ブリル社に売り込もうとしたのでしょうか。

      とても興味がつきません。

  7. 尾崎寛太郎様 ブリル台車の特許を調べられている時に見つけられ、そして発明者名からデジ青に辿り着かれたとの事、私も驚いています。あらためて、考えて見ますとこの投稿に関して湯口先輩のコメントに内藤春次郎氏が1883年生まれとありましたので、そうするとアメリカに特許を申請した時は34歳になります。かなり若いときに特許申請をしていたようです。しかし、当時の中学校卒業年齢から考えると34歳ではかなり仕事の実績を積んでいることを考えるとありえる話ではないかと考えてしまいます。ところでもう一人の村田利之助氏についてはよくわかりません。私の憶測ですがアメリカ特許申請の理由として日本国内に車台動揺防止装置が組み込まれた車両の売り込みを有利に行うためにではないかと思いますがいかがでしょうか。アメリカに特許申請していて、許可されたという思いがけない展開でだんだん面白くなってきました。

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