駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

若松IMG_0027sy▲ガランとした駅構内をハチロクが入換に励んでいた。この頃、石炭の積み出しはほぼ途絶えていた。この翌年には、筑豊本線から蒸機が消えていく。(昭和48年8月)若松IMG_0060sy▲駅に隣接して、若松機関区があった。区事務所の2階に受付があり、撮影許可を求めた際には、いつも眼下の区の光景を収めていた。(昭和44年3月)若松IMG_0005sy (2)▲事務所2階からの光景には、蒸機の保守に携わる人たちの光景も見られた。若松版“人と鉄道 働く人々”と言ったところ。(昭和48年8月)若松IMG_0059sy▲若松機関区の代表は何と言ってもC55だった。スポーク動輪を強調するため、キャブ付近から斜め前方を写すのが、当時の雑誌によく見られた。それを真似て、ローアングルから写してみた。(昭和44年3月)若松IMG_0003sy▲いっぽう貨物用ではD50だ。直方区のD50とともに、石炭列車の先頭に立っていた。ほとんどが化粧煙突で、名物・門鉄デフは、D50に限っては少数だった。初めて訪れた若松機関区で、D50、C55などに囲まれて、感動に浸っていた。(昭和42年3月)

若松IMG_0087sy▲いま梅小路蒸気機関車間に静態保存されているD50140は、最終配置区が若松だった。夕陽を受けて動輪周りが輝きを増す。それは、若松の落日をも見る思いだった。(昭和44年3月)若松IMG_0086sy▲蒸機ばっかりの若松駅構内に、時折、電機が顔を見せた。北九州市営軌道の電機で、若松駅から周辺の工場まで貨物を運搬していた。(昭和44年3月)若松IMG_0009sy▲北九州市営軌道は、旅客を扱わない、日本唯一の貨物専業の公営軌道で、若松駅を出て、若松随一の繁華街、中川通を行くシーンは、ほかでは見られない珍景だった。昭和50年に商店街からの反対も加わり、廃止となった。(昭和50年6月)若松IMG_0007sy▲狭い商店街を我が物顔で行く貨物列車。西日本車体工業の独特のカマボコ屋根を見せる北九州市営バスも、おとなしく後を付いて行く。(昭和50年6月)若松IMG_0005sy▲初めて若松を訪れた時は、開通間もない若戸大橋を渡って戸畑側へ戻った。懐かしい西鉄バスの旧々塗装が行く。今でも、若松側から、高速経由で小倉などへ向かう西鉄・市営バスは運転されているが、若松駅前には立ち寄らない。(昭和42年3月)若松IMG_0015sy▲駅周辺の再開発後のホーム。左手のヤードは売却され、市営の集合住宅などが建てられた。右手には、当時使用されていた50系客車が留置されている。(平成2年4月)

若松IMG_0014sy▲新しくできた広々した駅前広場には、石炭輸送に活躍したキューロク、19633と、石炭車セム1形セム1000が保存されている。(平成2年4月)

駅を旅する 〈3〉」への4件のフィードバック

  1. 若松、吉松、早岐はC51、C55のスポーク動輪のパシフッィク機が在籍していた所でしかも門鉄デフ装備機も多く、当時の蒸機ファンにとって聖地の様な所でした。ところが、私、若松には行ったことがなく、未だに折尾~若松間の若松線は未乗車区間です。D50がお好きであった山科の人間国宝さんはC57よりC55の方が貴婦人であると言われましたが、多分1750ミリのスポーク動輪がそういう風に言わせたものと思います。C55を斜め後ろから撮影するカメラアイはお見事です。無骨な感じのD50もそれなりに格好のいい機関車に見えます。室蘭線、信越線、関西線等D50が走っていた路線を思い出しますとD51の方が圧倒的に多く見られたのですが、筑豊線だけは改造機のD60を含めD50一族が多く、ハチロク、キューロク、C11、C51、C55とスポーク動輪の機関車が圧倒的に多かったですね。C57やD51はここでは少数派であったことも筑豊線の大きな特徴でした。北九州市営軌道の電機牽引の貨物列車は見ることができませんでした。

  2. 旧駅舎の写真の撮影年月日を見て、「なぜ昭和50年6月?」と疑問が湧きました。
    SLの煙が九州から消えたのが、同じ年の3月改正、新幹線開通時です。
    なるほど、北九州市営の貨物電機が無くなる前に写されに行かれたのですね。
    私は、地元のこの風景を撮りに行った時は、残念ながら日曜日は運休で、線路のある町中風景を一枚押さえただけで、帰ってきました。
    せめてものの釣果をあげんと、帰る途中の八幡駅で島鉄のキハ26を先頭にした、「いなさ弓張」を写せたのが救いですが、それすらも思い出のページの1枚になりました。
    3月改正までは、島鉄のキハは、中間車連結であったのですが、改正後は下りの先頭に立つようになりました。ということは、正しくは列車名は「出島+弓張」ですね。呉−長崎間を走る山陽線のDC急行の名前を受け継いだと、記憶します。

  3. 準特急さま
    若松、吉松、早岐…、懐かしい、いい響きの地名です。
    若松区にはラウンドハウスがなく、整備を終えた蒸機は、駐機線に並びます。形式写真が撮りやすかったことも、若松へ向かわせた理由のひとつでした。ここで、スポーク動輪の蒸機を撮るのは、至福のひと時でした。ただ、C55に限っては、ロッドの位置や、光線がイマイチで、ついにマシな形式写真が撮れなかったのが心残りでした。

  4. K.H.生さま
    コメントありがとうございます。若松駅の昭和50年6月撮影は、福岡市内線が全廃されるというので、駆けつけた時です。ただ、その時は、若松駅の改築も、市営軌道の廃止も、まったく意識していませんでした。
    若松駅は、翌年に再開発とともに、新しくなっていますから、最期の姿だったのです。市営軌道も、確かに商店街からの運行反対、廃止賛成の声があるとは知っていましたが、まさか、その5ヵ月後に廃止されるとは、思いもしませんでした。

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