信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

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最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

 

それが橋脚の継ぎ足しです。下の写真をご覧ください。明らかに継ぎ足されたことがわかります。

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よく考えてみると、図では信貴山下側の橋桁の高さは王寺側より高いので、現在のように橋桁が同じ高さですので継ぎ足した高さも信貴山下側では高くなっているはずです。これは王寺側からは確認できなかったのですが、信貴山下側から見ると確認できました。それが次の写真です。

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 先ほどの写真と比較していただければ明らかにその違いがわかると思います。これでわかると思いますが、大和川橋梁の橋脚は開業当初のものが現在も存在していることになります。そして、橋を渡りきった所も下の写真のようになっていました。(王寺側は堤防を改修された為であると思うが確認できなかった。)

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 また、下の写真と開業時の橋脚概略図を比べると信貴山下側の最初の橋脚は現在では開業時の基礎の部分が露出していることがわかります。よく見るとその下にさらに基礎部が追加されて施工されています。

IMG_2730 ところで、この橋脚の継ぎ足しはいつ頃に行われたのでしょうか。「近畿日本鉄道100年のあゆみ」という本を図書館で見ると、あのデハ51形が現在と同じ状態の橋を渡っている写真がありました。この電車は昭和33年に廃車になっているので、昭和33年以前にすでに現在の様になっていたことが明らかです。それでは戦前に継ぎ足されたのでしょうか。仮橋を架けて継ぎ足し工事をしたのでしょうか。鉄道史料98号にはデハ1形が大和川橋梁を渡っている写真がありました。この写真を見ると大和川橋梁は開業当初の姿です。年代は昭和10年代とありました。どのようなことがあったのでしょうか。解明しなければなりません。

 

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