富士身延鉄道モハ100形/その後の変遷

関 三平氏の「昭和の電車」は、富士山世界遺産登録に関連して、元富岩鉄道セミボ20、21、富士山麓電鉄モハ603、今回の富士身延鉄道モハ100形と富士山周辺の電車を取り上げられた。それも買収国電にこだわられた点が、関氏らしいところである。

電車については、関氏の解説文、K.H.生氏のコメントの通りであるが、国鉄から私鉄に譲渡後についてもう少し詳しく解説する。

昭和16年5月1日鉄道省に買収時に富士身延鉄道から引継がれた車両は、2年6月の富士~身延間の電化時に新製されたモハ100形5両(100、101、103~105、モハ102は12年9月事故により廃車)と翌年甲府までの電化開業時に新製されたモハ110形6両(110~115)、クハユニ300形4両(300~303)、クロハニ310形2両(310、311)、非電化時代大正6、7年に新製され、電化後も引き続き使用されていたサハ50形4両(50~53)、サハ60形3両(60~62)、サハ70形3両(70~72)の27両であった。
買収時の改番で、モハ100形とモハ110形はメーカーの違いのみで実質同形であったため同一形式にまとめられ、車号順にモハ93形93001~93011に、クハユニ300形はクハユニ95形95001~95004に、クロハニ310形は社線時代に「ロ」が廃止され、クハニ310形になっており、クハニ96形96001、96002に、サハ50形、サハ60形、サハ70形は同一形式にまとめられ、車号順にサハ26形26001~26010となった。

28年6月1日の称号改正で、私鉄買収車は、「阪和型」を除き、買収元私鉄単位に1000~9999に付番され、元富士身延鉄道は電動車が1200番代、制御車の中で合造車は7200番代になった。その結果、モハ93形は、モハ1200形1200~1210に、クハユニ95形は、郵便室が撤去されていたためクハニ7200形7200~7203に、クハニ96形は、クハニ7210形7210、7211に改番された。
サハ26形は、この時期までに事業用車に改造や廃車になっていたので改番の対象にはならなかった

話が前後するが、買収直後から輸送力増強のため、東京地区から木製省電が入線、昭和18年には木製車の鋼体化改造車として車体を新製された2扉セミクロスのモハ62形(62001~62003)とクハ77形(77001~7003)が登場した。戦後も省型の投入が続き、モハ93、クハユニ95、クハニ96は、飯田線伊那松島区に転属し、伊那電気鉄道買収車の大部分を置換えた。
モハ93形は、24年から26年にかけて両運の片運化と運転台撤去側の貫通化が行われたが、扉は手動のままであった。

31年から33年に廃車になったが、モハ1200(←モハ93001←モハ100)、モハ1209(←モハ93010←モハ114)、モハ1210(←モハ93011←モハ115)、クハニ7200(←クハユニ95001←クハユニ300)の4両以外は、弘南鉄道に7両、長岡鉄道に1両、大井川鉄道に3両、高松琴平電鉄に2両譲渡された。

国鉄時代の写真は、佐竹先輩の「私鉄買収国電」(2002年10月1日初版/ネコ・パブ社)を参照いただきたい。

弘南鉄道
モハ1200形4両、クハニ7200形1両、クハニ7210形2両が入線した。

モハ2250/昭和3年新潟鐵工所
モハ112→モハ93008→モハ1207と改番して32年5月に廃車になった。34年2月に譲り受け、51年に大鰐線に転属したが、終始ほぼ国鉄時代のスタイルで活躍し、56年2月廃車になった。(上:43-9-2 南弘前 下:大鰐線転属後 50-4-28 新石川)
43-9-2モハ2250
50-4-28 大鰐2250

モハ2251/昭和2年日本車輌
モハ101→モハ93002→モハ1201と改番して33年11月に廃車になった。36年3月に譲り受け、入線時に3扉化された。45年9月松尾鉱業鉄道から譲り受けたモハ2051(元阪和電鉄モヨ104→国鉄クモハ20052→松尾鉱業鉄道モハ201)に足回りを譲り、台車をD20と交換してクハ代用になった。再度台車をTR11と交換して51年に大鰐線に転属、57年1月正式にクハ2251となり、63年11月廃車になった。(上:43-9-2 平賀 下:台車振替クハ代用時 50-4-28 平賀)
43-9-2 2251 弘南
50-9-2モハ2251

モハ2252/昭和2年日本車輌
モハ104→モハ93004→モハ1203と改番して33年11月に廃車になった。36年3月に譲り受け、入線時に3扉化された。51年に大鰐線に転属、63年11月廃車になった。(50-9-2 弘南黒石)
50-9-2モハ2252

モハ2253/昭和2年日本車輌
モハ105→モハ93005→モハ1204と改番。33年11月に廃車になり、36年3月に譲り受け、入線時に3扉化された。51年に大鰐線に転属、63年11月廃車になった。モハ2252と共に56年3月制御器をHLからCS-5に変更している。。(50-4-29 平賀)
50-4-29モハ2253

クハニ1281/昭和3年日本車輌
クハユニ301→クハユニ95002→クハニ7201と改番して32年5月廃車になった。34年2月に譲り受けほぼ原形のまま使用され、49年大鰐線に転属して51年1月廃車になった。(50-4-28 新石川)
50-4-28大鰐クハニ1281

クハニ1282/昭和3年日本車輌
クロハニ310→クハニ310→クハニ96001→クハニ7210と改番して33年11廃車になった。36年1月に譲り受けほぼ原形のまま使用され、51年1月廃車になった。(43-9-2 平賀)
43-9-2クハニ1282

クハニ1283/昭和3年日本車輌
クロハニ311→クハニ311→クハニ96002→クハニ7211と改番して33年11廃車になった。36年1月に譲り受けほぼ原形のまま使用され51年1月廃車になった。(上:50-4-28  下:50-9-2 津軽大沢)
50-4-28 クハニ1283
50-9-2 クハニ1283

長岡鉄道→越後交通長岡線
モハ1200形が1両入線した。

モハ5001/昭和3年新潟鐵工所
モハ111→モハ93007→モハ1206と改番して33年11月に廃車になった。長岡鉄道時代の最末期35年8月に譲り受け、同年10月1日に中越自動車、栃尾電鉄との統合により越後交通となった。入線時東横車輌で両運化され、新製時のスタイルに戻された。50年4月旅客営業廃止により廃車になった。(上:43-8-30 下: 47-4-30 西長岡)
モハ5001 43-8-.30
モハ5001 47-4-30

大井川鉄道
モハ1200形2両とクハニ7200形1両が入線した。他車との併結に備え制御器をHLからCS-3に取替えた。

モハ305/昭和3年新潟鐵工所
モハ113→モハ93009→モハ1208と改番して32年5月に廃車になった。33年1月に譲り受け、主にクハ505と元富士身延鉄道同志でMT編成を組んでいたが、53年1月に廃車になった。(上:43-4-5 新金谷 下:45-3-10千頭)
43-4-5 新金谷2モハ305
My beautiful picture

モハ306/昭和3年新潟鐵工所
モハ110→モハ93006→モハ1205と改番して33年11月に廃車になった。35年1月に譲り受け、主に同時に譲り受けた元三信鉄道買収車クハ506とMT編成を組んでいたが53年2月に廃車になった。(画像は先頭で写っているものがないため割愛)

クハ505/昭和3年日本車輌
クハユニ303→クハユニ95004→クハニ7203と改番して32年5月廃車になった。33年1月に譲り受け荷物室の客室化と荷物扉の撤去が行われた。52年7月蒸気機関車の客車に改造され、ナハフ505になったが59年10月廃車になった。(上:43-4-5 新金谷 下:45-3-10千頭)
43-4-5新金谷4クハ505
45-3-10大井川

高松琴平電鉄
モハ1200形、クハニ7200形が各1両入線した。クハニはクハに改造してMT編成を組み急行「りつりん号」用として使用されたが、後年はロングシート化された。

1201/昭和2年日本車輌
モハ103→モハ93003→モハ1202と改番して32年5月に廃車になった。33年10月に譲り受け、同時に入線した1202と固定編成を組み、急行「りつりん号」用となった。40年にロングシート化が行われ普通列車用になったが56年5月廃車になった。写真がないのでINUBUSE氏よりご提供いただいた。
PICT0044

1202/昭和3年日本車輌
クハユニ302→クハユニ95003→クハニ7202と改番して32年5月廃車になった。33年10月に譲り受け、荷物室の客室化と荷物扉の撤去が行われ、車内にスタンド付売店が設置され、急行「りつりん号」用となった。以降の経過は1201と同様である。(画像は見つかり次第UPする)

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