“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉

山本覚馬邸

少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。

覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。

明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。

八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。

さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。

大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。

河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。

IMG_0001sy山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。

余談ながら、それを補強してくれたのが、私がサラリーマン時代に手がけた本の中の資料だった。河原町御池の近くの島津製作所の創業地に、当時の建物が残っており、内部が資料館となっている。その島津製作所は、十年ごとに社史を発行しており、昭和50年発行の百年史の中に、創業時代の付近の詳細な地図があり、私の推測を裏付けてくれた。まだ、私が30歳前後の時代、仕事で編集の手伝いをしたことを思い出した。

このことは、八重の回想録にも書かれているそうで「その頃、河原町通の京都ホテルの前で、大黒屋書店の南側に居ました」と書いてあるそうだ。

IMG_0003sy幕末まで長州藩の屋敷があった河原町御池の京都ホテル前を行く。ホテルの建物は新しくなり、名称も京都ホテルオークラとなった。長州藩屋敷であったことの石碑や、長州藩出身の木戸孝允の像があるる

2013_09_19_009sy 2013_09_19_004sy▲一週間前の河原町御池。京都は台風18号による大雨で交通網がマヒした。御池通の下を走る市営地下鉄東西線も、御陵駅が冠水、4日間も運休になった。その間、京都市バスによる、代行バスが運転され、普段は市バスが走らない旧国道1号線や山科駅前で、市バスの姿を見ることができた。ちょうど山本覚馬の居宅があった当たりの交差点を曲がる代行バス〈上〉と、京都市役所、京都ホテルオークラをバックに行く代行バス〈下〉、いずれも公営バスでは日本最古と思われる1995年製で、市バスの全車庫から総動員された。

“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉」への2件のフィードバック

  1. 地元総本家さんならではの綿密な調査と毎度の市電等交通機関を絡めての説明に当時を想い馳せることができました。脱藩して永年多摩の地、新撰組の故郷に近い所に住んでおり、京の都もすっかり忘れた今日この頃ですが、一度八重の桜ゆかりの地を案内していたでければと思っております。ところで先週は八重の故郷を走る会津鉄道や只見線を再訪してきました。

    • 準特急さま
      返信が遅れてしまいましたが、コメント、ありがとうございます。
      準特急さんのお住まい近くの日野は、新撰組の発祥地でしたね。たしか土方歳三の生誕地でしたか…。意外なところで京都と結びついています。以前、クルマで多摩地方を撮影案内してもらった時、日野の本陣か何かを案内してもらった記憶があります。
      京都の八重ゆかりの地は、今は鉄道とは縁のないところですが、鉄道のあった時代を偲んで歩くのも、意味あるものと思います。

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