EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -4-

烏丸今出川電停付近

西門を出ると、そこは烏丸線の南行き、北行きの停留所があった。今回はその周辺を。

・EVE 小西149041sy【13】烏丸今出川の北行き停留所の15系統900形。安全地帯は北行き・南行きともに交差点の北側にあり、そのまま路上横断してキャンパスへ行く学生が多かった。この時代でも、学生服の姿が見えた。(昭和45年 撮影/小西啓文)

131130_024sy今出川キャンパスの再整備に合わせて西門も新しくなり、周囲は開放的な雰囲気にはなったが、やはり以前の門構えのほうが大学らしくて好きだった。「薩摩藩邸跡」の石碑も少し移転した。

 

・EVE 福田IMG0036sy【14】キャンパス内から西門前を行く市電を見る。キャンパスの雑踏の向こうには、いつも懐かしい市電の姿があった。右手は今も新キャンパスに残る彰栄館。(昭和47年 撮影/福田静二)

彰栄館は1884年竣工の瓦葺き煉瓦造り。今出川校地にできた最初の煉瓦建築で、京都市内に現存する最古の煉瓦建築でもある。本日の“八重の桜”ではハリス理化学館が紹介されていたが、以前の同番組でも、彰栄館のことが、その名の由来とともに紹介されていた。中学校があった時代は、周囲に新彰栄館があり、それほど目立たなかったが、岩倉移転後にそれが撤去され、彰栄館は独立した建物となった。現在は上記のカラーのように、柵がめぐらされて改修中のようである。

・EVE 福田IMG0032sy【15】大学紛争中、西門は封鎖され、「全学無期限封鎖中」のタテカンが並ぶ。時折、烏丸通では、機動隊との市街戦があって、市電も恐る恐る通過していた。(昭和47年撮影/福田静二)

いまの現役生にとって、同志社前に市電が走っていたことと並んで、同志社にも大学紛争があったことなど、俄かには信じられないだろう。私の4年間は、紛争に始まり紛争で終わった。時に烏丸通にはバリケードが築かれ、火炎瓶で火の海になった。市電はその都度、騒ぎが収まるまで、おとなしく待っていた。そんな時代もあったのだとEVEの喧騒のなかで思った。

・EVE 福田IMG0033sy【16】手前の電停は人がいないのに、向こう側の電停には長蛇の列が…。これは、大学入試の終了直後の光景。受験生が延々と列を作って京都駅方面の到着を待っている。市電も臨時を出して対応した。(昭和49年 撮影/福田静二)

受験生輸送は京都市電らしいシーンだった。同志社の場合、終了時刻を見越して烏丸車庫から数両が空車回送され、烏丸上立売付近で待機していた。終了に合わせて、受験生が列を作って待つ停留所に続々と到着、受験生を詰め込んでは、京都駅方面に向かって行った。烏丸線廃止後、地下鉄が開業までの7年間は、その役目を市バスが負ったが、大変だった。一挙に大量輸送のできる市電の面目躍如の一日だった。

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