東風吹かば 鯰の鳴動 街砕く Ⅱ

鯰が暴れたころの老人はDRFC、海外鉄研、JTC(日本路面電車同好会)のメンバーで、連絡が取れない会員の情報集めに熱中していた。26日、姫路の木村氏から「JTS二井林御大に連絡が取れた。マンション入居OKで自宅に帰られたので訪問したいが、須磨以東は山陽本線不通の為で芦屋へ行くのは困難やけど……」と電話が入った。「甲子園-青木間が運転開始となる。誰か誘って行ってくる!」と返事。JTC・Ku、Am両君に連絡、午後3時30分阪神芦屋駅集合とした。二井林御大に電話を入れ「明日行くから、何を所望するや?」と聞き、結果を3人で分担購入する事にした。

昼間は急行になる直通特急

昼間は急行になる直通特急

1月28日(土)、青木まで開通した超満員の急行で西宮へ、駅周辺の観察後は各停に乗換え芦屋に向かった。芦屋駅に3人揃ったところへ御大がニコニコ顔で登場。「何かよいことあったの?」と聞いてみたら、「10日ぶりに風呂に入れた。自衛隊が公園に仮設風呂を作ってくれ、その募集は一日60人、申し込み順に風呂券発行とあった。券を貰いに行ったら61で、あかんと思っていたら男は風呂が早い、早速入れた。そして君らが来てくれたので久し振りに電車の話が出来る、こんな良い日はない!」。そして「そうや水汲みはどうだ!」。「やりまっせ!」と言ったのは良いとして、エレベーターは使えても芦屋浜まで徒歩5分強、20リッター入りポリタンク両手にぶら下げ2回往復に二人はへばった。ポリタンクの半分4缶は御大の友人老夫婦用で、Ku君は部屋を掃除していた。ビールと乾き物(つまみ)の買い物はKu・Am網コンビにまかせ、老人は京都阪急百貨店で京の御晩菜8点を持ち込んだ。御大は奥さんを亡くし一人住まい、これには大喜びで、と言って豪華なものはなく「売り出し中」の安い単価のものを集めただけでごめんなさい。また担いで来た物品は小学校の避難所へ届けるように指示された。年寄りに甘納豆、子供にチョコレート、乳幼児に衛生ボーロと、受け取った女性は大喜びであった。テレビで避難所に送られる物資がカップラーメン類中心と報じられ、知り合いの菓子屋に相談したら品種選定お任せで半額となり、小袋詰までしてくれた。

神戸中心街に入りたい。JR貨物が福知山線経由で山陽本線と接続している事を知った。そしてYu君に聞いてみると「神戸電鉄は三田-長田間がOKだが、中心部ならトンネル電車(北神急行)で新神戸まで出て来い」といってくれた。そこでJTC・Ta、Ai両君に福知山線利用を連絡した。

元クロスシートの700型は花形

元クロスシートの700型は花形

2月5日(日)JR宝塚駅9:25に3人は揃った。それぞれのバックは膨れ上がっていた。車両不足なのか、快速はなかなかやってこない。9:44にガラガラの117系6連でやって来た。その間上り「あかつき」がDD51牽引で寝台車8両、「エーデル鳥取」5両、急行「宮津」2両、共にDCでやって来た。この日に訪ねるのは神港高校鈴木先生で、勤務校でボランティア中、そこへ来るように連絡があった。トンネル電車は3人共に初乗りで、地上に出てみたら阪急今津線沿線とはスケールが違う。教えられた北野異人館街を西へ歩いた。木造の日本家屋は殆どが損傷をむき出しにしているが、異人館でも石造りはそれなりに残っている。煉瓦建ては駄目で、老人の母校が襲われたらどうなって……、想像するだけでも恐ろしい。山手通から上沢通りにでる。以前は市電が走っていたが今は地下鉄が走っている。Yu君はこんなことを言っていた。「地下鉄三宮駅は合理化で改札などを無人にしたら、機器が壊れて新神戸方面に運転できない。困った問題や」と、ぼやいていた。山手通に続く上沢通は戦災で復興住宅が軒を並べていたところだ。柱はシロアリの巣となり家は座屈している。2階の床は屋根と共に抛り投げられたようになり道路上に胡坐を掻いている。縦揺れの時、寝ていた人は全滅?こんなことを話しながら歩いていた。

神港高校に到着。先生は外出中。携帯で連絡したら夕方までに帰校できない急用が発生したとのこと。止む無く辞去して兵庫駅に向かった。Ai君の話では須磨まで開通しているが、びっくりの線路だと言っている。将にびっくりであった。長田地区に入ると空襲後の姿のようだ。線路は土台がしっかりしている箇所を繋いだようで、左右に曲がりながら西に向かっている。鷹取の構内ではオハ12系6連以外の客車は全部脱線している。須磨駅東では倒壊家屋2戸が列車線上で討死している。JTC能勢君の話では須磨~垂水間でコンテナー列車3本が立ち往生していると言っていた。これで分かった、コンテナー列車迂回運転の理由が……。

須磨から神戸に戻りハーバーランドの保存車(神戸市電706号)の見舞いに行った。少し動いた跡がレイルに残っているが無事であるので3人はほっとした。隣のフェリ-ターミナルには大阪弁天埠頭行き1250円の看板があり、待機船が係留されていた。生田川を前にしてテント村が目に入った。ここで背中の荷物を下ろすことにした。Ta君は草津市吏員Na君から預かったガスボンベ15本に同数を購入して計30本と御菓子類、Ai君は東北行き用に準備したホカロン15ヶに買い足して50ヶに飴缶、老人は芦屋と同じ構成ながら衛生ボーロ屋の協賛を取り付け、50袋箱入り無償品を其々に提出した。受け取った女性はここでもびっくり、3人の住所氏名をとなるが、「京都の風来坊で…」と言って先を急いだ。

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応援にやってきたJRバス

 

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3人は国道2号線を東に向け黙々と歩いた。崩壊しなかった高架道路下には補強資材が集積されている。その内に高架道路が消え明るくなった。撤去されたらしく地均し作業中である。「国道2号線はこのあたりから左折する、その経路を取った方が変化に富んでいるよ」、と言ってしばらく歩き、「ここからが元の国道線が合流したところだ」と若い2人に説明してやる。しばらく歩いて昔の水汲み用のポンプが歩道にあった。「どなたでもご自由に」とビラが下がっている。このあたりは六甲の伏流水が豊富なところで、それで灘なのだ。新在家の手前から崩壊した阪神本線南側にルートを取った。高架線に成る前の本線敷地で、細い道路で残っていた。歩くうちにそこかしこの地均しした敷地に木札と花束が差し込まれているのに気付いた。よく見ると線香の燃えかすもある。それが元住宅で、亡くなった人の弔いをした跡だと気付いた3人は手を合わせた。何度も繰り返すうちにテント村にたどり着いた。

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テントの向こうに凸凹の姿で電車がみえる。石屋川車庫にたどり着いたのだ。だが車庫から前に進むことは出来ない。復旧作業の第一弾として被災車両の地平への取り込み作業が始まっていた。止む無く国道42号線に出てみると甲南漬本舗の看板下にレッカー車があり2000系の車体が2両下ろされている。復旧作業は始まっているのだ。それを見届け、代行バスが青木駅近くで停車するのを知り、これで本日の終わりとした。急行電車は空いていた。梅田の地下街で飲んだ生ビールは殊の外うまかった。

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東風吹かば 鯰の鳴動 街砕く Ⅱ」への3件のフィードバック

  1. 乙訓の老人さんが当家を訪ねて下さり、中林さんが道路大渋滞の中、荷物を運んで下さり、DRFCの方々に感謝しています。趣味の世界を超え、実生活にまで大きな力を発揮して頂きました。

    筆者の住居は、途中15年の千葉県を除き、生地の尼崎から神戸に2往復の転居でした。神戸市立東須磨小学校(須磨区)、市立飛松中学校(同区)、県立長田高校(長田区)出身ですから、同窓生の大半の住まいも被災地区でした。

    1月22日(日)の夜、母宅から小学校同窓生に電話しました。小・中・高・同志社のH君は庭が崩れたが母屋に異常なし。F君は水とガスに困るだけと。同窓生みんなのマドンナIさんは六甲の高台で異常なし。ただ見晴らしが良く、神戸市街の破壊姿が見え過ぎて辛いそうでした。

    明石市のお得意さんの工場にも、2、3度見舞いに出かけました。阪急、代替バス、JR、阪神に乗り換えたり、歩いたり。2国を南北に架かる横断歩道での光景。南側に並ぶバス待ちの行列が横断歩道の上にまで及ぶどころか、降りてなお北側の歩道にまで連なる。この間、割り込みどころか、誰一人文句もなく黙々と並び、止まったり、ゆっくり進んだり。阪神の、東日本の震災時も、日本には略奪がないと、よその国が感心していたが、混乱がおきやすい単純な行列でさえ、この姿で日本人の礼儀良さをお改めて見たものです。

    震災から8年後に小学校4クラス合同の、10年後に中学校12クラスの、14年後に我がクラス単独の其々同窓会を開催して来ました。いずれも卒業後半世紀以上を経過。都度名簿作成役を担当。被災地区でも小・中・高の場所が比較的山手地区だったのか、住いも山手地区が多く、大きな物的被害や火事、身内・本人に不幸な人身被害が少なくて幸いでした。

    大体、神戸に地震が来るなんて誰が想像したでしょうか。台風や大雨による倒壊、浸水・山津波の被害は幾度となくありましたが、地震・大火事など誰が想像したでしょうか。地震多発地帯に名を連ねるでもなく、危険な断層地帯も聞いたことがない。神戸市株式会社との異名を持つ市政、瀬戸内の温暖な気候、海と山の風光明媚な街が、こんなになるとは。

    20年の歳月を経て、だいぶ復活して来たようです。瓦葺屋根の家屋に代わり、高層建物が増えました。幅広道路や都市空間も整備されつつあります。東日本大震災被災地も早く復興できればとは思いますが、阪神の何10倍もの被害だけに、相当長時間かかることでしょう。たとえ1日でも早い復興を祈念致します。願わくばこれから先、日本に災害が起こらぬよう、起こっても最小限に済みますように。

  2. 長田から青木まで歩いた時からもう20年も経つんですね。この時の神戸はあのようなひどい状況なのに、そこから20kmの大阪はいつも通りに動いていたということが悪い夢のようでした。

    • 愛読者JTS・Ta君、コメント有難う!待ってました・・・であります。3年前東武東上線成増の踏み切りで家族4人で手を振ってくれた「絆の一人」です。老人はその後、芝山鉄道、京急三浦海岸、相模鉄道全線と、関東圏のメイトと電車遊びをしております。東武小泉線も未乗車区間ですから小便の香りなしの電で行きたいと思っています。その時にはお誘いしますから伊香保温泉に足を伸ばすことをコースに入れたいと思っています。
      震災話はまだまだ続けるだけの当時綴ったものが有りますが、今回は一旦後一回で締め切ります。Ta君はもう一度登場します。Ai君は桜満開の頃までのやり取りが有りますが、一旦次回で中締めです。

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