1954年3月北陸から長野、三重 その7


北勢線で最後まで残ったコッペル32号機 桑名

前回が11月16日だったから、半月経過してしまったが、その7を続ける。

3人は名古屋鉄道を撮った後、最終関西線215レの「ハテ」で会おうと別れ、各人好きな場所へ。「ハテ」とは我々仲間の隠語で、三等展望車、即ち列車最後尾のデッキを指し、列車の「果て」というわけである。我家には電話がなく、時折「15ヒトカホセ912レハテ」てな電報が来ることがあった。15日東海道本線912列車の最後尾に乗れ、という指示である。

小生はまっしぐらに桑名へ。三重交通北勢線の桑名車庫には32号コッペル機が、荒れてはいたが姿をとどめていた。北勢鉄道→北勢電気鉄道7号→で、1924年製6.9トン。62号電機は松阪線から転じたもので、松阪電気鉄道12が前身。田中車両1927年10月製で、松阪鉄道電化当時の立役者である。


松阪線から転じた62号電機 ←松阪電気鉄道12

モニ226←北勢電気鉄道55 日車1931年3月製

モニ223+サニ431 桑名 軽便車両製作所なるところで1907年12月製造された大日本軌道熊本支社1が伊勢支社→中勢鉄道キホハ28→ 1944年戦災を受け車体を新製

サ105 太平車両なるところで1950年新製した木製車 桑名

右からワ714+713+711 桑名

なお写真で見られる通り連結器(ピンリンク=米国ではリンク&ピンと逆に言うが日本が逆か)の中心高が低く380mm。のち3/4柴田式自連に換装されるのはかなり後である。


三重線モニ228 諏訪 日車1949年3月製で敗戦後全国最初の762mm軌間新製電車

次いで四日市へ行き、諏訪まで歩く。やたらめたらと狭いところに車両がひしめいているが、かつてはこんな狭いところで単端式ガソリンカーの転回を、それも終日やっていたのである。三重線が戦時中に電化できたのは、沿線に海軍燃料廠があったためで、海軍士官は未成年の候補生時代から鉄道は2等に乗る、英国式の教育を受けていた。横須賀線、呉線や大村線に敗色濃くなるまで2等車が健在だったのはその為だが、ここでは超満員の代燃単端式車やボロ客車に音を上げ、海軍の肝煎りによる電化であった。なお三重線の連結器中心高は北勢線よりまだ30mm低い350mm。後年の自連化では流石に上げたが、それでも450mmで、軽便としては低い部類である。


ズラリ並んだ戦後製サ150型客車 164は近畿車両1950年11月製でのちサ158に改番

サ342+324 諏訪 342は三重鉄道ホハ6←四日市鉄道ホハ6 324は戦時中代燃ガソリンカーであるナ141←シハ81に改造されていた三重鉄道ホハ11←中勢鉄道ハニ1←大日本軌道伊勢支社ボコ1が経歴

なお三重交通の762mm線は三重鉄道、北勢電気鉄道、松阪電気鉄道の寄り集まりで、オープンデッキ客車が結構居たが、これを嫌って静岡鉄道、尾小屋鉄道に売り飛ばし、敗戦後密閉型客車を新製。最初は木製車体だったが、その後半鋼で近畿車両、帝国車両、ナニワ工機、日車で総計30両もの客車を作ったのが特異であった。

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