【56260】備後・備中に消えた鉄道を訪ねて その4 ~夢か、うつつか、水呑のまぼろし~

 いよいよ笠岡から鞆鉄道の資料があるかもしれない田尻民俗資料館に向かった。鞆鉄道のさよなら運転の時の写真があるのはわかっているが、それ以外に何かわかることがないか探索することも目的としている。事前に電話で聞くと日曜日しか開館していないので訪問日が決まってしまい、そして旅行の日程も決まってしまった。

 新山の井笠鉄道記念館からしばらく県道48号線を笠岡に向かって走る。そして、笠岡駅近くで保存されているホジ9を見たところから「野上式弾機」の話になった。とにかく、田尻民俗資料館への話に進めようと思う。

 笠岡からは広大な笠岡湾干拓地の北西側の道を通った。西村さんは日本野鳥の会の会員でもあるので野鳥観察にここには時々訪れるそうである。そしてこの干拓地には「笠岡ふれあい空港」があって、HPによると平成3年に近隣の農産物を空輸するために整備された飛行場で空港種別では場外離着陸場に分類されている。1988年(昭和63年)からの農林水産省農道離着陸整備事業の一環として整備されたとある。今はラジコン飛行機の大会とかのイベントや人力飛行機の試験飛行などに使われているようである。そして、まずJFEスチールの専用線のところへ行った。とにかく、西村さんは以前から専用線やら怪しげな物が好みのようで今でもいろいろ楽しんでおられる。専用線の列車が来るようでもないので、来たという証拠の写真を撮る。

 

そして、資料館のある田尻へ向かう。途中、芦田川を渡る。この川幅の広い芦田川は帰ってから調べてみると大正時代から頻繁に洪水が発生している。そのような暴れ川あるから鞆鉄道も被害にあった。

 田尻民俗資料館は鞆鉄道に関して期待していたほど成果はなかった。すでに訪れた人がネット上で紹介している写真以外は目新しいものはなかった。何か手がかりになることはないかと資料館におられたおばさんに聞いてみたが残念ながら、それもなかった。しかたなく田尻民俗資料館をあとにして鞆へと向かった。

 田尻から鞆まではしばらく左側に海を見ながら走るが、鞆に近くなると左側は鉄工所などの工場地帯となる。鞆鉄道が開通したころは海であったが、今は埋め立てられている。地形図の履歴で調べてみるとどうも昭和30年代に埋め立てられたようだ。昭和40年に測量されたものでは埋立地は書かれてあるが、工場はまだ建っていない。その工場地帯を過ぎるとすぐに鞆鉄道の終点鞆駅があった所に来た。今は鞆鉄道無軌条機械式内燃乗合動車の車庫となっている。

 どうも帰って来てからの方が調べることが多い。あそこで見たのはいったい、どういう事なのかとか、もう少し知りたいとか思うからである。今回も帰ってからいろいろ調べてみた。ほとんどがネットによって検索した情報なのであるが、このような情報をどう選択するかが問題になってくる。場合によっては図書館に行って関連資料を調べることになる。とにかく調べた資料をもとに鞆駅を推定してみた。間違っている可能性が大きいのでその点はお許し願いたい。

 鞆駅はどのようになっていたのか。広島県立文書館の企画展で「資料で見る広島県の鉄道のあゆみ」(1992年5月、6月の企画展)の図録に開業当時の鞆駅の写真があり、これから見ると道をはさんで、すぐ東側に海があったようだ。牧村俊介さんの写真で鞆付近の併用軌道を走る列車があるが、これから見ると併用軌道のままで鞆駅に進入していたのかもしれない。それは下の図のような感じであったのだろうか。

 鞆駅想像配置図

この図で怪しいところは本線と車庫のヤードがどのように接続されていたかである。図録の写真と昭和初期の写真から推定すると車庫やヤードから本線に入るには貨物ホームあたりで接続されていて、本線に入線するようである。どうも、実にめんどくさい線路配置である。本当にそのようになっていたのだろうか。ところが、昭和15年頃に撮影された動画映像を見ると線路配置が一部変更されているようだ。この動画映像は中国放送(RCC)の「ひろしま戦前の風景」のなかで「夏の鞆・福山・尾道」にあり、機関車が機回しで入れ換えをしているところが見ることができる。これによると、どうも機回しの線路配置が変更されていることがわかった。しかし、どのような線路配置になったかよくわからない。残念ながら鞆駅についてはこれぐらいしかわからない。もう少し調べて行けばよかったのであるが、とにかく事前に調べるにはわからないことが多い鉄道である。

 鞆の駅は町の北のはずれにあった。地形図で見ると鞆の町は南北に狭い細長い所に発展した町である。鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央にあって、古代より瀬戸内海ルートの重要なところである。そして、動力船がなかったころは鞆の浦は潮待ちの港として栄えたところなのである。ちょうど、たとえば上げ潮の時の潮流は豊後水道から伊予灘を通って鞆の浦あたりまで来る。また紀伊水道から大阪湾、播磨灘を通って同じように鞆の浦あたりまで来て、西から来た潮流とぶつかり合い逆流したり、止まったりして複雑で激しい潮流となる。このような海域であるので動力船でなかった頃は潮待ちの船が頻繁に出入りしていたので鞆も繁栄していた。動力船になると潮待ちをする必要がなくなり、交易港としての価値は低下して町としても以前のような活気はなくなっていった。しかし、瀬戸内の景勝と歴史的町並み、名所旧跡などが大正14年には「名勝・鞆公園」として指定されて観光地として知られるようになった。中国放送(RCC)の「ひろしま戦前の風景」でも観光地として物見遊山で鞆に訪れている映像が見ることができる。鞆は戦前からすでに観光地としての性格を持ったところに変わっていったことがわかる。鞆鉄道も福山から観光地に人々を輸送する役割を担っていたようだ。

 ちょっと、鞆の町をぶらついてみよう。そういえば、大阪では毎日放送テレビ(TBS系列)で放送されている日曜劇場「流星ワゴン」というドラマは鞆の浦でロケをされている。幽霊が出てきたり、生霊が出てきたり、そして時計が逆転したりして面白い。あっ、我が家にはどういうわけか本当に逆転する時計があった。時計が逆転するということはひょっとしたら鞆鉄道が走っている時代に行くことができるかもしれない。そんなことあるのだろうか?いや、そんなことはありえない。世の中は非可逆的なのが自然の摂理である。そんな、アホなことは考えないでいよう。

鞆といえば次の写真にあるような風景である。

鞆港 雁木

遠く左側に鞆のシンボル常夜灯が見える。近づくと思ったより大きい

 

この階段状の物は雁木(がんぎ)といって潮の干満でも船からの荷揚げ、荷下ろしができる船着き場である。江戸時代につくられたもので、雪国にも同じ字で書く雪覆いの雁木がある。まったく違うものが同じ字で同じ読み方であるのが不思議である。それと「てんぷら建築」である。建築関連でこのような言い方があるか調べてみたが、どこにもそのようなことは書かれていない。

ネットで「てんぷら建築」で検索しても天ぷら屋が出てくる。どうもよくわからないが、大正から昭和にかけて鉄筋コンクリートの建物が増えてきたと書かれていた。だから、木造であるが鉄筋コンクリート造りに見えるようなモルタル壁の建物が流行したのではなかろうか。中身の木造にモルタル壁の衣で覆って建てられているので「てんぷら建築」というのであろうか。そして、古いものでは寛政年間に築造された防波堤がある。今でも鞆港の防波堤として現役である。それと朝鮮通信使の迎賓館であった対潮楼からは仙酔島などの景勝を望むことができる。

 さて、翌日の最初は鞆鉄道の廃線跡を訪ねることとなった。まだ、西村さんが場所を確認できていない橋台跡である。それは水呑(みのみ)にあるところまではわかっているが、そこから先がわからないようである。西村さん持参の資料を見ると近くに神社があることから、この神社をまず見つけることから始めた。ナビの地図なども含めて探していると神社があった。その神社の近くに小さい川があって堤防を東側に少し歩くと、目的の橋台があった。

どうも、神社名が異なっていたので特定できなかったようである。写真を撮って周辺を眺めてみると、北側は少し低くなって住宅地となっている。昔は田んぼで鞆鉄道は築堤で少し下って福山方面に線路が続いていたのであろう。そして、鞆方面側は橋を渡ってすぐ民家の裏側になり、その民家はちょうど廃線跡の上に民家が建っている。水呑では公民館と水呑薬師駅があった所に行った。公民館では玄関のところに写真が展示してある。芦田川が改修された後に付け替えられた線路を俯瞰した写真があり、芦田川の堤防まで立派な築堤が築かれてあるのがわかる。しっかり下調べをしているとよくわかるのであるが、行ってみて初めてわかることがある。それにしても洪水で流出した線路の復旧工事の資金はどのように調達したのだろうか?

水呑薬師駅跡

水呑薬師駅舎があった所に簡単な碑が立てかけてあった。

 

水呑薬師の駅があった所であった人が、この近くに鞆鉄道の橋台があったと教えていただいたが、橋台の捜索は難航をきわめて、残念ながら捜索をあきらめた。

 これで鞆鉄道から次の目的地へと進むのであるが、水呑で撮った鞆鉄道の橋があった所の写真は旅行から帰ってからしばらくは橋しか写っていなかった。しかし、12月中頃から妙に怪しいものがあぶり出しの如く、何やらうっすらと見えてきた。ついにある程度鮮明に見えるようになった。こんな感じである。

jpgへっつい列車が走る鞆鉄道-1

へっついが走っていく。

 

これは鞆鉄道にあった「へっつい」が引く汽車のようである。しかし色がなく、なんとなくエンピツで書かれたような絵のようでもある。これは「夢か、うつつか」そして「水呑のまぼろし」なのか。さて、これはいかに・・・   続く

備後・備中に消えた鉄道を訪ねて その4 ~夢か、うつつか、水呑のまぼろし~” への2件のコメント

  1. どですかでん様
    飯山線の大雪のため遅れていた列車も無事発車しておめでとうございます。さすが元地歴部のどですかでん様の探索とその記録、興味深く読ませていただきました。最後のへっついの写真良いですね。続きを楽しみにしています。

    • 大津の86様 コメントありがとうございます。終着駅に向かって走っておりますが、東海道新幹線みたいに285km/hにスピードアップができないので、どの程度遅れを取り戻せるかわかりません。へっついはパワーがない上に、寄り道をしたりするので終着駅にいつ着くかわかりませんが、後ろから「鹿渡号」が接近してきているので、逃げ切ろうとボイラーの圧力を最大限に上げていますので何とかなるでしょう。

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