【58872】北陸トンネル開通前夜-杉津駅付近、半世紀前

1962(昭和37)年4月、2回生の春休み。同好会の亀田満夫さん(筆者と併せてツルカメコンビのもう一方の方)と撮り鉄・乗り鉄に出かけました。初日は北陸トンネル、開通があと2ヶ月に迫り、トンネルの開通で廃線となる新保-山中信号場間です。

ここで、北陸トンネルと旧・北陸本線の概要を紹介します。地図に書き込みました。
fig01敦賀-今庄間の縦断面図です。(日本国有鉄道線増課より)
(新)北陸トンネル経由敦賀-今庄、と(旧線)敦賀-今庄間
fig02重要幹線・北陸線の数あるボトルネックの一つ、敦賀-今庄間26.4kmを13.9kmの北陸トンネルで19.3kmに短絡した。北陸トンネルは1957(昭和32)年に着工、約80億の巨費で1961(昭和36)年7月完工。トンネル開通と電化により、勾配は25‰から11.5‰へ。貨物1,000t牽引はEF70で32~23分の短縮。特急気動車は11.5分、客車急行が15分、同普通車が21.5分の短縮となった(小沢耕一 『北陸・山陽・信越電化に伴う時刻改正』 鉄道ピクトリアル第133号  p15 1962年7月号)。

さて、撮影記録。天気が悪くて結果はいまいちでしたが、さすがボトルネック区間。連続勾配にあえぐDD50やDF50と本務機D51、後ろ補機のD51の機関車軍団の奮闘。スイッチバックを繰り返す3つの信号場、ひっきりなしに列車交換する駅、次から次へと列車が行き交う途中、客貨入り乱れ、多数の列車撮影に大忙しの一日でした。

先ず降り立ったのが、葉原信号場。乗ってきた612レから降車、早速撮影。
電柱の横に立つのが同行の亀田さん、寝袋とリュックを足元に置いて眺めている。
▼葉原信号場(左)客218レ 機D51177【敦一】(右)我々乗車の客612レ
04607▼葉原信号場 引き込み線に退避中上り貨物 機DF50541【敦一】+D5104609信号場を少し南に下って有名な葉原大カーブへ。
▼カーブを登る下り貨物 DF50+D51、後補機付き。04614 ▼その後補機D51
04615▼2001D 特急『白鳥』、エンジンを唸らせ補機は付けず堂々の12連。
それがすっぽり収まって余る程、葉原の大きな上りカーブ。04618 ▼貨物1000トンに機関車3(4)輌でも収まる大カーブ。
04624 ▼下り客511レ大阪発青森行き各停 機D51348【今】補機D51649【今】
04627▼静かな里山は、一時煙に霞み、轟音に包まれ、過ぎ去れば元の静けさ。04628▼杉津駅 先ほどの(左)客511レ補機D51649【今】(右)客532レ 機D51168【今】04629▼杉津に到着909レ準急『こがね』(富山からは910レ)
(名古屋発北陸・高山・東海道線経由名古屋行き循環準急) 04630 杉津駅を出、山中信号場方向へ坂登り。左手が日本海、天気良ければ眺望抜群の筈。
▼客505レ準急『ゆのくに』大阪発金沢行き 機D51
04701▼客231レ米原発富山行き各停 機D51299【敦一】右手奥に杉津発車の蒸機が見える
04702 ▼下り貨物 機DF50+D51 後補機D51 右手奥にやはり杉津発の蒸機が見える。
04704とこんな具合でした。fig03
その後、再び杉津駅に戻り腹ごしらえ。右の長靴で即席ラーメン食事中が筆者です。

ツルカメコンビは諸先輩に学び、撮影行の必須携帯品は、リュック、寝袋、ラジュース、ガソリン(ポリタンクに)、食器、米、即席ラーメン、缶詰、紅茶、スープの素、懐中電灯、スリッパ、うちわ(夏)、蚊取り線香(夏)、懐炉(冬)、輪カンジキ(冬)、地図、筆記具等々でした。

この後、夜行で富山、長岡経由、越後川口から飯山線へ、そのときの画像は以前にデジ青に投稿紹介済みです。

人と鉄道と-乗客編(2)-


さらに翌日は小海線へと春休みのそれはそれは、超素敵な3日間でした。

北陸トンネル開通前夜-杉津駅付近、半世紀前” への6件のコメント

  1. tsurukameさま
    50年以上前、文字どおりtsurukameコンビで行かれた北陸旧線の蒸機の力闘ぶりを堪能しました。私は北陸旧線はもちろん撮ったこともありませんし、乗った記憶もありません。私が撮影を始める、ずっと前から撮影旅行を続けられていた、お二人に敬意を表する次第です。地図を見ますと、約15キロにわたって、ほぼ一方的な25‰勾配が続いているのですね。D51やDF50にとっては、たいへん厳しい区間だったことでしょう。「ゆのくに」「こがね」の名も懐かしく、客車も貨物もDCも、みんな長いですね。当時を代表する沿線のアイテム?、ハエタタキも時代を語っています。リックの中身も楽しく拝見しました。

  2. 狩勝に間に合った私もこの雄大な場所は行けませんでした。Tsurukame様との年齢差を感じますしよくある「もうちょっと早く生まれていたら」と悔やむところです。先人の撮られた杉津の海をバックにした写真などもよく拝見してきましたが、一つ疑問があります。当時のDD50やDF50はディーゼル機関車の黎明期にあり大して馬力もないのに非電化区間では無煙化の立役者として特にDF50は急行「出雲」「三瓶」「日本海」「磐梯」や準急「穂高」「上高地」など優等列車牽引に使用されていました。ところがこの難所では貨物列車の前補機という勿体ない使われ方をしていたようですが、これは何故でしょうか。「立山」や「ゆのくに」など優等客車列車牽引の間合い運用であったのでしょうか。播但線でもDF50やDD54が貨物や旅客列車牽引のC57などの前補機についていましたので同じことが言えます。週末準急の「ゆあみ」は本務機がC55で生野峠の前補機にDF50がついていました。ところでここはマルーンさんは何回となく通ったのではないでしょうか。

  3. 西村さんがこのtsurukameさんの投稿から半世紀後の杉津についてかかれていますが、私も鉄道時代の杉津は全く知りません。しかし、富山へ北陸道を行き来していると賤ヶ岳SAから南条SAの区間は山間部で特に冬は気合を入れて運転しないといけません。この区間は旧北陸線の一部のルートが高速道路になっていることはみなさんご存じだと思います。私は最初は知らずに運転していましたが、それとなく富山方面に向かう特急列車を運転しているような気分でいました。その所がちょうど今回tsurukameさんの写真にある特急白鳥がエンジンを唸らせて走っていく葉原の大カーブです。写真で見ていると、このカーブを貨物列車が機関車3両で登っていたのがわかりました。北陸道もこのカーブの所には登坂車線があって、大型トラックはエンジンを唸らせて登って行きます。今も昔も変わらないのではと思います。杉津は米原方面の上りPAが駅だったようです。下りPAはその山側で、ここは「夕日のアトリエ」と言われています。一度だけ休憩したことがありますが、上りPAより高い位置にあるので展望が良かったです。富山から戻ってくる時、上りPAはいつも通過ですが、トンネルを抜けると左手にPAの建物があり、本線より分岐して駐車場になるのですが通過する時はいつも駅構内を待避している貨物列車(大型トラック)を追い抜いて行くようでした。PAを通過すると、すぐに左にカーブしてトンネルですが、これも米原方面から来た準急こがねの写真の写っている風景と今もほとんど同じで半世紀前であるのになぜか懐かしく感じます。杉津のトンネルと葉原のトンネルの間はちょうど右手に敦賀湾が見えて、富山を朝早く出ると敦賀10時出航の新日本海フェリーの白い船を見たことがあります。敦賀から木之本の区間も麻生口からは鉄道のルートという事を後で知りました。そして、冬のときは柳ケ瀬トンネルを抜けると明るい陽ざしになるので「ああ~帰ってきたな」という感じになります。杉津を中心として北陸道は鉄道を感じさせる高速道路でしんどいけれども走っていて楽しい所です。久しぶりに行ってみたくなりました。

  4. コメントを戴きました3名の皆様、どなたにとっても巡り合せ出来なかった事だったのですね。そうなのです、このような時代もあったのです。すると、筆者はなんだか相当の年長者になったようですね。そう、この8月からは後期高齢者です。

    余談は別として、夫々の方がここから派生した話題をご提供くださり、こちらも興味深く拝見し、楽しくさせていただきました。ありがとうございました。

    時代は多年に渡り、人それぞれが、違う境遇の機会から、ひとつの共通話題について語る。面白いですね。こんなやりとりは他の Web で、ましてや鉄道関連では見た事がありません。DRFCだけです。

  5.  福井出身の私にとって、ある意味懐かしく、子供の頃が思い出されたり、今庄と敦賀の間がこんな風だったのかと思いを新たにさせて頂きました。素晴らしいシーンの数々有り難うございました。
     記憶がごちゃごちゃなのですが、思い出したことをいくつか・・・
    今庄で補機を繋いだり上下列車の交換で長時間停車、その間に食する「今庄そば」(今は福井駅で営業中)、スイッチバックの連続、トンネルの窓の上げ下げ、どこからとも進入してくる煤煙の煤(顔や鼻は真っ黒けでしたね)、とにかく福井から敦賀は遠かった。とはいうものの子供心に大阪に連れて行って貰うときは嬉しかった。夜汽車は満員、担ぎ屋のおばちゃんや、色んな方々が乗って独特の車内風景が、話し声等が思い出されます。大阪はハレの場、明け方になって、普通列車が電車区間に入るとスピードを上げ、駅を飛ばして走って行く車輪の音が忘れられません。
     その遠い敦賀までの区間を外から写し出すと、こんなに素敵なシーンになるのだと再確認しました。子供心に貨物列車が通過するのは、客車と違い何と長いものだと感じたことがありましたが、国鉄がまさに北陸経済の生命線だったことが偲ばれました。
     「ゆのくに」や「こがね」(逆行は「しろがね」でしたね)も懐かしく拝見しました。
     北陸トンネルが開通して、ビジネス急行「越前」(ディーゼルカー)で大阪まで3時間で往復できた時には、その快適さにびっくりしたものです。
     皆さんがお書きですが、北陸自動車道は旧北陸線を一部利用していると聞いていましたが、杉津(すいづ)や大カーブ、今度走るときは、今一度昔を思い出し、走ってみたいと思います。

  6. またまた、北陸トンネルに縁ある方が参加されました。新規参入の福井生まれの方、よく判りました。これまでに、勤務先が富山の奈良県人、同じく勤務先が富山県福岡の京都出身のご老人、最近高速道路で尋ねた方、聞きしに及んだが訪ねるにも既に廃線でどうしようもなかった青信号ご常連の方々、などなどなど。

    会員大所帯のDRFCだから、こんなに年代、境遇、機会、その他諸々が違うにも拘わらず、北陸トンネル一つに話題集合が出来るのです。面白いですね。うーんなんと言ったら良いのか。・・・うまく表現できずに、まどろこしい限りです。文学部の方々、名文を。

コメントを残す