【60685】芸備線100年 追憶シリーズ その2

本日の朝刊から。

 

H27-5-23 中国新聞朝刊

H27-5-23 中国新聞朝刊

私は子供の頃 家に「米穀通帳」があったことは覚えていますが、闇米運びの光景は知りません。ところで この写真を見ていて変な感じを受けたのですが、デッキの向こうのドアが四隅にRのついた窓なのです。闇米運びがあった頃にHゴムの窓があったとは思えないのですが・・・。これは闇米ではなく 単なる大きな荷物を背負った人、もしくは行商人ではないかと。諸賢のご意見をお聞かせ下さい。

芸備線100年 追憶シリーズ その2” への4件のコメント

  1. 写っている客車は、オハ61かオハフ61です。

    オハ61は昭和26年から31年にかけて車体新製(鋼体化改造)されていますので、昭和30年前後に撮影されたものと思われます。

    闇米屋の実態はよく知りませんが、昭和30年代前半頃は間違いなく存在していました。

    昭和35年前後の新聞記事で、北陸線に闇米屋専用車両の存在が掲載されていたことを覚えております。
    当時、中之郷、木ノ本、高月辺りから京都、大阪方面に向かう闇米屋が多数おられ、富山6時発大阪行532列車(木ノ本発12時54分、京都着15時31分、大阪着16時15分)の2両位を専用車両にしていた、というものだったと思います。(時刻は昭和36年10月号の時刻表から確認)
    買い出しに行く時は、荷物がある訳ではなく問題にはならないですが、帰りは一般客と混乗ではさすがに問題ありと判断し、乗車する車両を指定したのだと思います。

    戦後の混乱期はともかく、昭和30年頃になると闇米屋の存在は黙認されていたと思います。

    米屋から買う米より、闇米屋の方が美味しいという話を聞いたことがあり、この頃になると、良質の米を入手するために闇米屋を利用する人がいたのかも知れません。

    昭和35年4月に京阪沿線の中学校に入学しましたが、通学定期購入時に「米穀通帳」が必要でした。

    • 藤本哲男様
      オハ61は登場当初からあの窓だったのですね。納得しました。闇米黙認で専用車両まであったとは知りませんでした。学生時代に函館本線の普通列車の1両スハ32に「行商専用車」というサボがぶら下がっているのを見て驚いたことを思い出しました。「かつぎ屋」とか「行商」という言葉も死語になってゆくのでしょう。通学定期と米穀通帳も初耳です。当時の世相がよみがえるコメントをありがとうございました。

  2. 自己消費のためヤミ米を農家から直接購入する「買い出し」は、食糧事情の好転で1950年代早々で終焉し、「職業として」配給米より良質のヤミ米を運ぶ「かつぎ屋」はその後も組織的に残存した。この時点では取り締まりもなく、いわば公認状態であった。というのは、取り締まり=没収=公定価格での強制\買い上げの実益が消滅し、かつぎ屋側もそれを避けるため、例えば京都駅では、鴨川鉄橋を過ぎ駅構内の手前あたりで、デッキに積み上げたコメの袋を線路に蹴落とし、地上で待ち受けた仲間が大八車やリヤカー、運搬車と称せられた特別丈夫で大型の自転車で運び去る。この組織的活動には警察も手が出ずいわば無法状態で、離れて見守る=鉄道施設に被害がないよう=だけであった。蹴落とされた米袋でポイントや信号設備を損傷した事故もあり、だれが仲立ちしたのか知らないが、ホーム上で堂々と搬出されるようになった。列車、号車を指定して、一般客との混乗・トラブルを避ける現実的対応がなされるのが、1950年代後半まで続いたのである。

    小生の学生時代多用した一筆書きルート連続乗車券だと、米原-京都間別途乗車券が必要で、かつ学割の要件たる100kmを満たさないから、この区間実質無札ということが「心ならずも」であった。「かつぎ屋」に指定された列車は検札がないため、よく利用したのも事実である。

    なお蛇足を加えれば、自己消費用買い出し時代、職業的になってもしばらくは、各人が担げる範囲での車内持ち込みだったが、上記のような「職業かつぎ屋集団」に特化してからは、管理を兼ねて少数の専従員?が乗車するだけで、1個列車で輸送する米の量は、個人的対応時代の十数倍かそれ以上で、当然積み込み、積み下ろし時には多数の要因が湧くように現れる。指定された客車内は、文字通り米袋の山だった。国鉄はわずか数人分の運賃しか得られず、タダで彼らの米袋を運んでやっていたのである。

    さらにその後はトラックでの大量運搬に進化し、列車での「かつぎ屋集団」が消滅したのは、1958、59年頃じゃないか。米運搬でなく、主としてたくましい中高年女性の行商集団=「ガンガン部隊」が、やはり客車指定で乗車していたのも、同じような時期に消滅したように記憶するのだが。

  3. 老人は小学校2年の秋に闇米運搬をしたことがある。父親の田舎に兄と二人で行った時の事なのだが、帰路の近鉄榛原駅で兄は警官に止められ交番所に行った。弟はこれ幸いと改札に電車見たいから兄が帰ってくるまで中で待たしてくれと言って、貨物用ホームの端で芋せんべいを齧りながら兄の帰りを待っていた。ほどなく兄はぶつくさ言いながら帰ってきた。米なんか入れてないと警官に言っても信用しない。大きなリックザックだからコメを入れているに違いないと、しょっ引いて行ったらしい。中身は大根を始めとする野菜類で、その中からなぜか玉ねぎと下駄を統制品と言って取り上げられた、とぼやいた。米は弟のリックザックに鎮座していたのである。なんでも3貫目のものを担いでいたらしい。兄は今でも下駄を巻き上げられたことをぼやいている。
    高倉の高橋で列車の出入りを眺めていた頃、ある日コメを放り投げているところへ行ってみた。東海道線が京阪電車をオーバークロスする位置で、京阪の線路脇は道路であったが、「こら!今通ったらアカン!」と大声で怒鳴られた。ほどなく下り列車が通り過ぎたが、頭上の線路脇から米藁の袋ではなく、麻の米袋が道路めがけて飛んできたのを今も覚えている。そうこうするうちに線路際の放り投げ役の連中が降りてきて麻袋を整理したところでオート3輪到着、麻袋を荷台に放り込んで行ってしまった。その後、こうしたところには警官が構えており、その時は鴨川鉄橋を超えたところで奈良線めがけ麻袋を放り投げていた。中には最後部の貫通路内側に積み上げ、それをこじ上げ線路敷きに落としていた情景に出くわしたこともある。
    東海道線電化工事が始まり、こうした大掛かりなものはいつの間にか姿を消した。。
    老人Ⅰ人か兄と2人で何度も田舎に物もらいに行ったが、その時の帰路は必ず京阪丹波橋経由とした。丹波橋でも奈良電沿線帰りの取り締まりがあったが、それらは17時になると引き上げると兄は情報入手済みで、小学生であっても丹波橋経由が安全と、暮れの餅米運搬役は老人の役目であった。

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