50年前の撮影地を歩く -5-

暑い毎日が続いています。私自身は、いままで関わってきた発表・イベントも一段落し、本ホームページへの投稿には絶好の機会となりましたが、構想だけはアタマを駆け巡るものの、この暑さではキーボードを打つ手が前へ進みません。でも、ここで一念発起、溜まった夏休みの宿題を一夜で片付けるべく投稿を続けます。

東海道新幹線開業後の山科大築堤
前回の「50年前-4-」では、東海道新幹線開業の前日、山科大築堤の様子をお伝えしたが、今回はその一年後、山科大築堤で定番の撮影ポイントに陣取った東海道新幹線開業後の記録を(いずれも昭和40年8月1日撮影、撮影順)。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業し、在来線も大きな節目を迎える。しかし、東京-大阪の電車特急こそ全廃されたものの、電車急行は多くが存置された。九州を結ぶ寝台特急・急行にも変動はなく、現在のような、新幹線開業によるドラスティックな変更は見られなかった。この時期、臨時列車も数多く運転されていて、まだ東海道線には、長距離列車が華やかに走っていた。        50年前9朝の光線を受けて山科を行く、東京発大阪行き急行「明星」、東京-大阪間の夜行急行(客車・電車)は、ほかにも「銀河」「金星」「月光」「いこま」があり、九州方面への夜行急行も加えると、10本が運転されて、夜行列車の全盛時代が続いていた。

50年前5名称板に目隠しをした153系は、東京発京都行き普通列車の451M、ただし、大垣までは夜行準急「東海6号」であり、大垣からは普通列車となるため、このような姿となった。いまの「ムーンライトながら」の前身となるような列車だった。50年前7普通電車は、113系が関西地方にも進出しつつあったが、中京圏へ向かう中距離電車は、オールクロスの80系で固められていた。関西-中京圏は準急「比叡」が多く運転されていたが、これを補完する普通列車(電車・客車)も名古屋行行き3本、浜松行き、豊橋行き、東京行きも夜行も含めて2本が残っていた。50年前4東京-大阪の電車急行は、新幹線開業時に一部が廃止されたものの、不定期も含めて4往復が残った。「六甲」「いこま」「なにわ」「よど」と、いずれも関西の地名由来の愛称だった。新幹線には、まだ高値感があり、私も以後によく乗車することになる。大阪-東京の所要時間は、7時間30分で、現代の18きっぷ利用の所要時間よりやや早い。50年前1北陸線は新幹線開業時に金沢-富山間の電化完成、それまでの金沢行き電車急行「ゆのくに」「加賀」の一部が富山まで延長され、「越山」を名乗った。「越山」の由来は、某大物政治家の親睦団体からではなく、富山の旧国名である「越中」にすべきところ、さすがに忌避され、富山県の新旧の国名、越中と富山から一字ずつ採ったのが真相だと言う。造語の愛称は馴染みがなく、わずか1年後、「立山」に統合されてしまう。50年前2EF61に牽かれてカーブを行くのは西鹿児島発東京行き急行「高千穂」。客車の両数を勘定すると、なんと16両もある。時刻表の編成表を見ても、郵便・荷物車を含めた東海道の夜行急行列車は15両が最大だ。よく見ると1両目は窓が開いておらず、回送扱いのようにも見えるが、なんともすごい列車だった。そして、茶一色のEF61は、日本の電機のなかで、いちばん好きなスタイルだ。EF61の一部が、まだ広島方面で活躍していることも感慨深い。50年前臨時列車も多く運転されていたが、この列車、大阪発東京行きの臨時急行3032レだけで、なんと愛称が付いていない。時刻表を見ても空欄のままだ。8月1日から3日までの3日間のみの運転のためか、珍しい愛称なしの急行だった。さすがに認知度は低いようで、開いている窓も少ない。スジそのものは、不定期急行「桜島」を使っており、この期間、「桜島」は西鹿児島-東京の全区間で運休し、波動需要の高い東海道筋に車両を振り向けたようだ。50年前6151系電車なき山科にあって、朝の山科のクイーンと言えば、「白鳥」だろう。しかもまだ上野行き、青森行きを併結していた時代、14両編成と、151系特急よりもまだ長い。食堂車も2両だ。背後の東山に、キハ82の柔和な顔つき、それに続く80系の流れるような編成美がよく映えていた。

50年前の撮影地を歩く -5-」への8件のフィードバック

  1. わっ!なんとも懐かしい場所が出て来たぞ!話は1955(昭和30)年春ではなかったかと思うのだが、老人は東海道線電化を前に山科の築堤で「伊勢えび快速」の姿を撮影に行ったときだったと思うが、総本家氏がカメラを構えた位置で両足を踏ん張ったとたん、「こらぁー!そこどかんかいかぁーい!ころされるどう!」と、後ろから怒声を浴びせられた。」振り向けば明らかにオッサン思われる人種が5,6人、出て行けと手を振っている。老人は京津御陵駅上手の踏切を渡り築堤を潜り東海道線線路沿いに上がったとき、オッサン連中は眼に入らなかった。多勢に一人、泣き泣き築堤下に降りあきらめた。
    その後、DRFCメンバーと須磨の大人中心に山科の築堤の事を話していたとき、「或る日、若い奴が山科グループの前でカメラを構えたので追っ払った!」と言ったので、「それ俺だよ」と言ったらポカーンとした。ややあって「失礼!、・・・」と、なった。
    それから数十年後、山科の人間国宝宅で築堤が話題になった。その時、国宝さんが「あるときカメラを構えた前であつかましい男が出て来て、後ろから「出て行け!」と怒鳴ったら、枕木の上を下駄履きで器用に走り、逃げよった」と。「それ、僕です」と言ったら満座は大笑いとなった。

    • 乙訓の老人さま
      早朝からのコメント、ありがとうございます。大築堤で人間国宝から怒鳴られた逸話は、老人が酔うとよく聞かせていただきました。いまの鉄ヲタ用語で言う“劇パ”の様相だったのでしょうか。でも私は何回か大築堤に登りましたが、多くの撮影者に囲まれた記憶がありません。前回にも書きましたが、東海道新幹線開業前日、つまり「こだま」など151系特急が消える当日でも、ほんの4、5人でした。昨今の異常なまでの人出を見ると、まさに隔世の感ありです。

  2. 懐かしい光景に思わず見入ってしまいます。貨物列車も次々と通過して行ったことでしょう。多分EH10やEF60でしょうか。今の若者が見れば考えられないような場所での撮影ですが、黄害の洗礼も受けましたね。貨物列車の情景も是非ご披露して下さい。

    • 西村さま
      いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。山科大築堤は、我々世代では、蒸機の時代は、とても無理で、その後の「こだま」の時代も、辛うじて記録できた世代です。でも、新幹線開業後の大築堤は、案外、発表されていない気がします。確かに古い世代から見れば、C62や151系の走らない大築堤は魅力に乏しかったのかも知れませんが、50年経つと、さすがに一枚一枚の写真は貴重なものになってきます。さて、貨物列車、あまり撮っていないですね。地味な貨物にはあまりカメラを向けませんでした。牽引は、EH10、EF60が中心でしたが、まだEF15も走っていました。また、わずかの写真をさらえて見ていただきます。

  3. 総本家さん、鉄ヲタ用語で言う”劇バ”とは何のことですか。老人にはさっぱりわかりません。
    新聞局時代、何度かフィルムつぶし(36枚目)で鉄道を撮りに行きましたが、残っているのは貴兄ご存じの市電に絡む数枚だけで、洛北高校中心のものがありません。

    • すいません、字が違っていました。「劇」ではなく「激」です。激パとは、撮影地に異常なほどの撮影者が集まり、「激しいパニック状態」になっていることを意味します。最近のネット上を飛び交っている鉄ヲタ用語です。発信源は、ネットの中心の中学生、高校生が得意がって使っていますが、次第に市民権を得て、大人の趣味者も使うことがあります。
      「ヒガハスへ銀釜撮りに出撃したら、マルヨもいて置き三だらけ、もう激パ状態でブチギレ、おまけに甲種と裏被りしてしまい、ケツ撃ちしかできなかった」などと表現するようです。

  4. 目先のことに追われているのが「てっちゃん」の今の姿なのでしょうか。こうした風潮は何時ごろから出てきたのでしょうか?老人は結婚、子供の誕生と、殆んどの男女が迎える生活を送ってまいりましたが、以前にも書き込みましたようにある時期「てっちゃん」色を薄くしたので今日があると思っています。その間の支えはDRFCであったと思っています。DRFCメンバーは薄っぺらい鉄であってほしくない!と何時も思っています。時の流れに流されることなく、鉄道の過去、現在を知り、将来に繋げる乗り物であるように側面から応援したいものです。

    • 乙訓の老人さま
      コメント、ありがとうございます。現在のような鉄道趣味に対する情報過多、低年齢化が激しくなったのは、やはりネットがごく当たり前に、それこそ老人も子どももパソコンを扱うようになった2000年以降ではないでしょうか。ネットはやはり諸刃の剣だと思います。
      「不易流行」という言葉がありますが、時代の変化に流されることなく、しかし、時代に応じた新しい表現を求めて行く、これは鉄道趣味でも同じだと思います・

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