50年前の撮影地を歩く -6-

今でも時折、東海道線を在来線で上下する身にとって、心ときめかせる車窓風景も多くあります。富士山はその代表ですが、晴れた冠雪のシーズンに限られ、何時でも見られるとは限りません。その点、長い丹那トンネルを抜けた瞬間、熱海の街がパッと眼下に広がる瞬間は、何にも代え難い、心をときめかせる車窓風景に映ります。とくに西から長い時間を掛けて来ると、箱根の山も越え、いよいよ東国に入ってきた思いが募り、見える景色も車内で交わされる言葉も違って、ちょっとした緊張感と、あと2時間足らずで上がりとなる安堵感にも包まれる瞬間です。
丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (1)
そんな、熱海へ50年前の昭和40年8月、家族旅行で行ったことがある。宿泊先が丹那トンネルに入る直前、伊東線来宮駅の左手の高台にあった円形のホテル、西熱海ホテルだった。元祖、トレインビューホテルのようなところで、部屋のベランダからは、前年に開業した新幹線を始め、東海道線、伊東線が収められた。ホテルは2006年に廃業し、その後も残骸が列車の窓から見えていたが、いまは建て替えられて、東急のリゾートマンション、ヴィラ熱海青翠になっている。
丹那トンネル (8)暮れるまでの間、さっそくカメラを携えて、線路端へ向かった。真下が来宮駅の構内で、まだ伊東線全線が単線の時代、列車の交換が見られた。構内の通行は線形の関係で、右側通行になっているのが特徴で、右は伊豆急下田発東京行き準急「おくいず」、まだ準急が幅を利かせている時代だった。左は熱海発伊豆急下田行き629M、伊豆急156号ほか7連。

丹那トンネル (10)丹那トンネル (9)訪れたのが盆の時期だったので、ここでも多くの臨時列車が運転されていた。新幹線開業後も、中国・九州方面へは、乗り換え不要の在来線の列車が好まれていた。上は東京発博多・折尾行き臨時急行「はかた」「北九州」。EF58146〔宮〕がオールハザ14両を牽く。なんともイージーな命名の列車だが、臨時列車としては、昭和39年の夏臨あたりからの設定らしい。折尾行き「北九州」は門司で分割、わずか門司-折尾のみを単独で走行していた。その後、「北九州」については、関西発着、東京発着を繰り返し、一時は消えるものの、1970年代始めまで臨時列車として残った。左上は東京発大垣行き準急「ながら」、159系10連。東京-大垣は準急「東海」が頻発されていたが、不定期は「長良」となった。当時は不定期の愛称は、同じ区間でも定期列車とは区別されていた。その後、修学旅行列車「こまどり」が159系で運転されると、オフシーズンには「こまどり」のスジを使って159系で設定され、のちに、ひらがな書きの「ながら」となった。丹那トンネル (7)丹那トンネル (11)_edited-1いっぽう、定期列車も特急電車こそ新幹線開業で廃止されたものの、東京・大阪を結ぶ急行列車は大活躍だった。上り急行「いこま」は、昭和43年10月改正まで毎日運転の不定期急行として運転される。右は、西鹿児島行き急行「高千穂」、EF58162〔浜〕、EF58はまだ原色が多かった。なお「いこま」の右端に見える建屋は、昭和33年に、伊東線が国鉄初のCTC化された時の扱い所だった。丹那トンネル (1)丹那トンネル (2)熱海口には観光地向けの優等列車も運転されていた。代表が157系を使用した2往復の全車座席指定急行「伊豆」だ。東海道線の特急「ひびき」廃止で、その前年から157系はリゾート急行に転進、冷房つきのリクライニングシートの車内は、当時の最上級の急行列車だった。なお、「伊豆」は、修善寺行き6両と伊豆急下田行き7両を併結した13両編成で、熱海で分割するため、来宮で待っていると、わずかな差で雁行して来る。丹那トンネル (12)丹那トンネル (6)伊東線の普通列車は、伊豆急100系の乗り入れ車と国鉄113系が半々程度に運転されていた。昭和36年に開業した伊豆急行は、東急系だが、当初は国鉄が路線免許を持っていたため、将来的には国鉄に編入される可能性も盛り込まれ、車両の規格も国鉄に準じていた。開業時用意された100系も20mで、国鉄153系と同じ裾絞りだった。片や2扉クロス、片や3扉セミクロスと、完全に伊豆急が上だった。憧れの“ハワイアンブルー”、伊豆急の電車を間近に見られて大満足だった。113系は、東海道線列車との誤乗防止のためかゴッツイ羽型の方向板を付けていた。

 

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