ダメ押し 倉吉線訪問記 1973年夏

投稿する函館の昔の写真をスキャンするためにネガを整理していたら探していた倉吉線のネガ2本が見つかりました。
もう少し早ければタイムリーだったのですが、遅れ馳せながらのダメ押しとして1973年7月21日(土)、私が初めて訪問しました倉吉線の紹介をさせていただきます。ただ当時の記録日誌は紛失してまだ見つかってはおらず、写真と時刻表を見て、合わせながらの紹介となりますので時間等が間違っているかもしれません。ご理解、ご了承願います。

① 京都22:08(臨時急行白兎51号)⇒4:36倉吉
▲ 4:36 前夜、京都から臨時急行白兎51号に乗って着きました。まだ夜明け前の倉吉駅です。駅前にひと気など全くありません。

img042014▲ 倉吉線が発着するホームには客車が1両留置されていました。他のネガからオハニ61-326と読み取れます。

img028007img027006▲ 次第に夜が明けてきました。給水塔下で発車準備をしているのは、C11-261号機です。

倉吉線06_1001▲ 5:52頃 倉吉線1番のハイライト、倉吉上灘 2.4㌔の上灘寄りに架かる天神川鉄橋を渡る混合列車です。牽引はC11-261号機、最後尾の客車は留置されていたオハニ61-326と思われます。。
列車は倉吉 5:48始発の混合421列車関金行きです。撮影場所は倉吉駅から約1.8㌔の河川敷からですので徒歩で向かったと思われます。

撮影後は、再び徒歩で打吹へと向かいます。43年前はとても元気でした。
倉吉線07007▲ 6:20頃 かつての駅名は倉吉であった打吹に到着。山陰本線設計当初は倉吉の市役所がある中心地のこの場所を経由する計画であったそうですが、「汽車が通ると人家が燃える、煤ける」との住民反対運動が起こり、やもなく海に近い現ルートに変更されました。そして、山陰本線の倉吉は1903年(明治36年)12月20日に建設・開業されています。

しかし、京都まで開通しますと物資・客の流れは大きく変わり、これでは町が衰退していくと、ようやく気付いた住民から倉吉軽便線の誘致運動が起こりました。
1910年に施行された軽便鉄道法に基づき、1912年(明治45年)6月1日に国鉄軽便線として申請・開通されたのがこの路線です。山陰本線の倉吉駅上井駅と改称されて、倉吉の駅名はなぜか1972年(昭和47年)1月10日に打吹に改称されるまで倉吉線のものになりました。

山陰本線の上井は1972年(昭和47年)2月14日に再び倉吉に戻されて現在に至っています。同じ駅が別名に変わってまた元に戻るなんて事は他にもあるのだろうか?
01_時刻表_200倉吉線08_1009倉吉線08008▲ 倉吉線の時刻表と打吹に掲示されていた発車時刻表です。
混合・気動車・客車と3種類の運行が明示されています。元の左の写真では分かりにくいので変形修整してからバックに色を入れました。

混合列車は下り2本なのに上りは何と4本も運行があります。よほど貨物輸送が多かったのでしょうね。
また、わずか20㌔のローカル線なのに途中駅の打吹西倉吉に始発・終着列車があったのも珍しい事です。

倉吉線09010_200▲ 打吹の駅舎は、1912年(明治45年)6月1日の倉吉軽便線開業時には倉吉駅として開業しました。町の中心駅として立派な木造駅舎です。

倉吉線12014倉吉線13_200倉吉線13015▲ 6:30 打吹駅前には子供たちが集まってきました。そして夏休み恒例のNHKラジオ体操が始まりました。子供たちの元気な姿が見え大きな声が聞こえるこの頃は、倉吉線が活況満ちていたのでしょうね。

② 打吹 6:39(443D)⇒7:00 関金
▲ 7:00 直ぐに山守行きの443Dに乗って関金で下車しました。先ほど撮った蒸気機関車はこれより先の駅では機回しの設備がないので行けません。ホームの向かいには、折り返して倉敷へと戻るC11-261号機は機回しを終えて発車待ちです。オハニ61-326と、新たにオハ60でしょうか客車を連結しての2両編成です。昨夜留置きされていたのでしょうね。

倉吉線1501701_関金入表券▲ 関金の駅舎です。
1941年(昭和16年)5月17日、打吹からの延伸時に開業しています。
湯口先輩が身ぐるみ洗濯してくれたと言われる関金温泉の玄関口です。
関金温泉は、放射能泉の名湯だそうで、次回近くに行った時は身ぐるみ洗濯を期待して、是非に寄ってみたい温泉です。

倉吉線16019▲ 駅舎を撮って戻って来ましたら先発します444D倉吉行きに乗車される乗客がホームに上がっておられます。土曜日でしたので少ない乗客だったと思われますがそれなりにはありました。

▲ 7:21 関金を出発した444Dです。キハ20を先頭にキハ28系2両を含めての3両編成でした。

倉吉線18021▲ 登り坂の築堤先で次発の本命を待ち受けます。7:47発のC11-261号機牽引の客車列車が発車してきました。暑い夏の真っ盛りですが期待通りの黒い噴煙を上げてくれました。

③ 関金 8:23(445D)⇒8:33 山守
倉吉線19022▲ 8:33 次の列車で終点の山守へと乗り鉄旅です。山守はホーム1面1線の駅で、駅舎は待合室だけの簡素なものでした。

倉吉線山守から姫新線が走る中国勝山へと延伸されて南勝線として総延長43.1㌔になる予定でしたが道路整備が進みだすと用地買収も行われることなく、1985年(昭和60年)3月31日限りで倉吉線が廃止されたために建設放棄されました。
米っ子時代に三朝温泉を訪れた際にバスの車窓から廃線跡を見てみましたが、沿線は寂れて、かつて鉄道が通っていた頃の面影はありませんでした。

④ 山守 8:36(446D)⇒9:08 倉吉
朝は何とか過ごせましたが、ボチボチ猛暑の時間がやってきます。もう少し頑張ってみても良かったのですが日中の撮影は大変ですので日和リ根性が出てしまいました。倉吉に着いてからは近くの羽合温泉の海水浴場へと足が向いていました。

短い時間でしたがこれが私の倉吉線の最初で最後の訪問記です。ご覧いただきましてありがとうございました。はこぶらの旅にスイッチを切り替えさせていただきます。

ダメ押し 倉吉線訪問記 1973年夏」への1件のフィードバック

  1. 懐かしく拝見させていただきました、吾輩が職場の旅で通り過ぎて半世紀が過ぎました、当時は上井駅と言っていましたね画像にありますC11261が給水塔の側で休んでいたのを写した画面は同じポーズでした、ホーム脇には懸垂式の信号機がありましたね、みんな居なくなってしまいましたね。
    (1971年6月2日)記憶

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