思い出しました!

子供の頃の思い出は、時として昨日のように鮮明なものがあります。そしてそれがどんな時の出来事なのか、どこでの事なのかなど前後と切り離して覚えているため、いつまでもすっきりしないのです。
今日、関先生の近鉄・京阪200型記事と湯口先輩の丹波橋の奈良電を見て60年ぶりに解決しました。

それは小学校低学年の頃、電車の先頭の窓から入ってきた風にあおられて、お気に入りの帽子が飛ばされてしまったことです。帽子は英語で「Central」の文字が入っていました。電車は京阪か奈良電だと思われます。五枚窓の先頭部で左側に運転席、右側は前まで近づける形です。窓は下降式で車体の色は緑でした。どこで飛ばしたのか、夢にまで見たのですが他人には言えず今日まで来ました。
それが丹波橋の200型を見て、「これやッ!」
あれは両親と奈良公園へ行った帰りでした。奈良公園で鹿に突き飛ばされて情けない気持ちのところに好きな帽子を無くしたことで一気にべそをかいたことを思い出しました。場所は巨椋池の辺りでした。お二人には心より御礼を申し上げます。ありがとうございます。

関先生と湯口先輩の記事に関連した写真を探し出しましたのでご覧下さい。
s-近鉄200型225生駒これが近鉄の200型でしょうか?だったら撮っていたのですね!

大キトお召

大キトお召

東海道新幹線の工事が始まった頃、お召し列車が来ました。京都駅に撮りに行ったのですが、到着後すぐに京都客車区へ引き上げられて清掃が始まりました。その時の写真ですが、左端に奈良電のホームが見えます。止まっているのは何かわかりませんが、関先生の絵とちょうど反対からの風景です。

昭和30年代の京都駅南口

昭和30年代の京都駅南口

上の写真より少し前、京都駅南口(今の八条口)です。この駅舎をはさんで右(東側)に国鉄奈良線、左(西側)に奈良電ホームがありました。斜めに上がっていく階段は、奈良電ホームへのものと思われます。テルハの塔も見えます。右端に見える跨線橋は奈良線へのもので、関先生が描いておられるのもこれかと思われます。

昭和30年代の八条口東口

昭和30年代の八条口東口

これは南口の東方向、バスの後ろが竹田街道で、今はアバンティーなどが建っています。左の建物は電化完成で作られた電気機関車の車庫だったように思います。この先、黒いアーチ橋が市電伏見線の跨線橋で、この手前には転車台が有り、奈良線用の蒸機がよく停まっていました。

思い出しました!」への3件のフィードバック

  1. 米手作市様
    撮ってますね。驚きました。私と同年代でありながらダブルルーフの卵5枚窓の電車や八条口の昔の風景。これらはお宝ですね。東山連峰の山並みを見て八条口とはわかりますが、ただただ驚きです。米手様も出し惜しみをせずにもっともっと秘宝を紹介してください。

  2. 米手作市様
    写真に触発されて、記憶に残る当時の京都駅界隈の印象をいくつかご紹介します。
    最後の写真の左手に建つ建物は恐らく電気機関車用のものだったと思います。正直、電化に合わせて建てられた電機用の庫かどうかは知りませんが、小学生の頃によく写真の先に在る塩小路高倉跨線橋へ自転車をとばして観に行ったものです。今から思うと歩道もない危ない処でしたが、車はバスかタクシーにトラックくらいでしたから、なんとか市電をやりすごせば見ていられたのでしょう。
    電機は殆ど茶色のEF58でしたが、たまにグリーン58やEF15・EH10を見ると珍しくてワクワクしたものです。奈良線のSL(C58)もいたとのことですが、小生は殆ど見かけた記憶がありません。
    跨線橋からは入出庫する電機や行きかう列車・80系湘南等を飽きず眺めていました。庫の東には確かに転車台があり、出庫したEF58が転線して奈良線との分岐点辺りの折り返し線へ出て行っていました。SLの方転用だとばかり思っていた転車台に、転線のために電機も載るのだとか、ロングランするものと思っていたEF58同士の機関車交換があるのだとか、パンタグラフの摺板上面は架線と摺れて銅色に光っているんだ、等々そこでいろいろなことを知りました。
    一方で駅の北西山陰線脇にもよく行きました。丁度タキイ種苗の前後です。一度、多分15:30頃の胡麻行17系DCだったと記憶しますが、駅からトロトロ出てきたので自転車で競争してやろうと思い、並行して走りだしたまではよかったのですが、追い越されてしまった(当たり前だ)ので止まろうとブレーキをかけたところ、当時未舗装の砂利道だったため見事に転倒、後部に乗っていた弟共々道に投げ出され、あちこちに擦り傷を負ったこともありました。
    当時の山陰線はSLが当たり前で、看板列車はDF50の牽く準急白兎やキハ55系の丹後でした。普通では朝9:30頃に到着する東舞鶴発のキハ20の8連は壮観で、今でも強く印象に残っています。
    また駅の南西、東海道線の南側には京都へ来る団体列車用の留置線が何線かあり、いつも長編成の旧型客車がズラッと並んでいたのも覚えています。当時は客車をよく知らなかったので形式等の記憶はありませんが、何故か3軸ボギー台車だけははっきり記憶があります。やはり珍しいと感じたのでしょうか。当時のことですから、観光客よりも寺院参りの団体用ではなかったかと思われます。
    全くの回顧談になりましたが、鉄道にもまだまだ夢があった時代でした。小学生の頃の懐かしくもいい想い出です。

  3. 準特急様、
    出し惜しみなどしていません。前にも書きましたが、当時家業がカメラ店だったため期限切れや装填失敗のフィルムをもらってその辺を手当たり次第に撮っていたそのうちの一枚です。特に京都駅周辺は遊び場だったため山ほど有りますが、喜んで頂けるなら順次出していきますが・・・
    私鉄は全く興味の対象外だったため、撮ってはいるけどさっぱり分からんのが実情です。

    1900生様、
    あの車庫はまちがいなく電化後に作られました。また、高倉高架橋は市電が東側(東海道本線上り側)へ片寄せして敷設されていたため、言われるように東側から撮った写真はほとんどありません。転車台付近にあった機関車は奈良機関区のもので、私はC51を撮っています。東海道線南側の留置線には確かに客車が止まっていました。いまは時々コキが止まっています。タキイ種苗の旧本社屋や今のリ-ガロイヤルホテルの位置にあった倉庫なども写っています。でも、そんなものに興味がありますか?

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