奥津軽、春の1人旅 桜満開の津軽鉄道 Part2 津軽森林鉄道を中里町博物館で見る

第1日目 4月24日 その2

④ 津軽五所川原15:15⇒15:52津軽中里

津軽五所川原で一旦下車したが折り返しまでは11分しかないのでどこへも行けません。
DSC_1914025 津軽鉄道のアテンダントさんは2009年(平成21年)6月えちぜん鉄道に続いて全国2番目に乗務開始となりました。往路のアテンダントさんは入社7年目のベテラン、ニックネームは「みっちょん」の小枝美知子さんでした。年季の入った味のある沿線案内をお聞かせいただきました。ありがとうございました。
下りられたら早速おばあさんへの案内もされています。おばあさんはリックサックを背負っておられます。どこへ行こうかと観光の相談なのでしょうか。

DSC_1915026▲ ホーム上の時計横に掲げられている乗車感謝にも手作りのローカル鉄道の味が出ています。

DSC_1918027▲ 津軽飯詰をでるとポイント上にスノーシェルターが設置されていますが、他の鉄道で見かけるのと違っています。奥津軽は冬季、日本海から吹き付ける強風が有名で地吹雪の里とも呼ばれていますので、片側だけに風雪除けの壁が設置されています。ホームには間垣(まがき)が、家々の板囲いには津軽弁で「かっちょ」と呼ばれている風雪除けが設置されています。

DSC_1920028▲ スノーシェルターをくぐると築堤に菜の花が咲き乱れています。地元鉄ちゃんの話では今年は例年より花が多いそうです。何とかものにしたいものです。

DSC_6698078DSC_1932029▲ 15:52 37分の乗車で終点津軽中里に到着。構内の桜は満開です。津軽中里までの20.7㌔を最高速度70km/h、平均速度33.6km/hと結構早く走破しますので三江線のように追っかけは不可能です。道路も整備されて60km/h強で走れますが、信号が結構あり、追いつけても撮影アングルを見つけることが出来ません。

▲ 車庫前にはかつて使われていた転車台が放置された状態で残っています。

夕焼け撮影までは時間が空きましたので行ってみたいと思っていました津軽森林鉄道のDLが保存されている中里町博物館に向かいました。
DSC_670207902_博物館入場券_100▲ 16:09 駅からは車で約5分の所にある図書館内に併設されています。入場料は250円、入場きっぷの裏面に記載されているように津軽鉄道中里からさらに小泊、三厩を経て青森へ至る計画がありましたが、国鉄津軽線が開業したことにより計画は消滅しています。

入口を入るとすぐに協三工業製のDLが復元展示されていました。受付で展示品の撮影は良いかどうかをお聞きしますと全てOKでしたので撮り続けます。

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DSC_6707083【 津軽森林鉄道 】
木曽ヒノキ、秋田杉と並んで日本3大美林の1つとして津軽半島の「ヒバ林」は、江戸藩政時代から幕府の直轄林「御留山(おとめやま)」として保護育成されていました。
豊富な資源を有していましたが運材輸送力がなく、明治に入ってもほとんど手付かずの状態でした。

1904年(明治37年)日露戦争勝利後の経済活発化により木材需要が増加し、運材大量輸送の安定化のために日本では初めての本格的な森林鉄道による着工・建設がされていきます。最盛期には幹線・支線を合わせると約120㌔になったそうです。
※ ただ、我が国初の森林鉄道と言えるのは、明治34年長野県の阿寺渓谷の宮内省所管の御料林内において、主に塩や味噌などの従業員の生活物資を輸送することを目的に、阿寺軽便鉄道が敷設されていますので、正確には2番目だったようです。

森林鉄道開業以前は雪橇(そり)、馬(牛)車などの人畜力での限られた輸送でした。続いて軌道が敷設されての運材トロッコは台湾でもありましたが大変危険だったでしょうね。
中里博物館01_100▲ 1908年(明治41年)に蟹田~薄市が開業、次いで1909年(明治42年)に薄市~喜良市貯木場青森貯木場~蟹田が延伸され幹線の67㌔が開業しました。その後1960年(昭和35年)以降、幹線からの各支線が相次いで建設され活況の時代を迎えました。この頃は地域住民の足として客扱いも行われていました。
蟹田から西へ今泉への中央山脈を越える区間が難所でしたが「相の股隧道(187.3m)」と「六郎隧道(454.5m)」の2つのトンネルで抜けて突破しました。

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DSC_1964_100【 青森ヒバの効用・特徴 】
ヒバはヒノキやサワラの別名。日本固有の樹種「青森ヒバ」は、ヒノキ科アスナロ属の針葉樹で、和名をヒノキアスナロ(学名:Thujopsis dolabrata)といいます。青森ヒバにはヒノキチオールという成分が多く含まれ、他の樹種にはない優れた性質があります。ヒバで建てられた家には蚊やシロアリなどの害虫が近寄ってこないと言われています。シロアリに対する24時間後の致死量は1.20mgであり、非常に効果的な殺虫活性が認められています。蚊やゴキブリに対する忌避効果、殺虫活性も確認されています。
また香木とも言われるくらい香りが強い木で、その香りは人を和らげ、落ち着きを与えるアロマ・リラクゼーション効果があります。木には陽樹と陰樹とがありますが、青森ヒバは陰樹に入ります。ほんの少しの光でも樹齢300年以上生きてきた不思議な力を持った木なのです。※ 以上、青森ヒバのある暮らしHPからの抜粋転載です。詳しくはこちらをご覧ください。

博物館でも写真を入れて詳細が展示されていました。興味深い内容でしたので掲載します。DSC_6709084中里博物館01_100【 使用された蒸機機関車 】
開業当初に導入されたのはボードウィン社製10㌧B1リアタンク蒸機機関車3両とライマ製シェイ式12.8㌧蒸気機関車の4両でした。その後ベルギー・コッケリル社製の11㌧Bサイドタンク蒸気機関車1両、ドイツ・コッペル社製10㌧B1サイドボトム蒸気機関車2両、雨宮製作所製10㌧サイドボトムタンク蒸気機関車2両、楠木製作所石崎レール商会協三工業のB1サイドボトムタンク蒸気機関車やBサイド蒸気機関車と多種の10数両が使用されていました。
シェイが使用されていたのは驚きでしたが、国内では他に魚梁瀬森林鉄道八幡製鐵所呉の海軍工廠でも一時期使用されています。

中里博物館02_100中里博物館03_100▲ 内燃機関車は1924年(大正13年)に初めて米国ホイットコム社製ガソリン機関車導入され支線から本線への引き出しに使用されました。その後にグースも導入されていました。また展示されている協三工業製はじめ多種の内燃機関車が導入され、1960年(昭和35年)ころには蒸気機関車から全車置き換わりました。これほど多種の機関車が走り回った頃は面白かったでしょうね。

中里博物館04_100▲ 浅野物産製木炭瓦斯代燃装置付機関車、酒井製作所加藤製作所製の代燃装置付機関車も導入されましたが1960年(昭和35年)頃にはディーゼル機関車に替わっていきます。

中里博物館05_100中里博物館06_100▲ 道路整備が進みだし運材はトラック輸送に替わっていきました。昭和30年後半には約40㌔まで縮小され、やがて廃線へと追い詰められていきます。昭和42年11月には半世紀58年に及ぶ歴史を閉じて終焉となりました。

現在、青森県の森林鉄道は近代化遺産として数々が下記の博物館に展示保存されています。
全国の国有林森林鉄道の全路線数は1,000路線、延長は8,000km以上に及びました。東北森林管理局管内では473路線2,950㌔が運行されました。約200両の蒸気機関車が走りましたが唯一動態保存されているには、北海道丸瀬布営林署の武利(むりい)森林鉄道で運行していた雨宮製作所製21号サイドタンク蒸気機関車で、現在、丸瀬布いこいの森で観光用に客車を牽引し運行されています。他米国ボールドウィン製のリアタンク蒸気機関車3両が仁別森林博物館森林技術総合研修所根利機械化センターと赤沢自然休養林に各1両が静態保存されています。

現役の森林鉄道は、国有林のものでは屋久島の安房森林鉄道及びそれ以外のものは京都大学芦生演習林の森林軌道のみで、これら以外は全て廃止されました。

DSC_1958_1043DSC_1958_4046▲ 青森県には他にもヒバ材運材のため大畑森林鉄道川内森林鉄道がありました。

DSC_1958_2044DSC_1958_3045▲ 軌間は462㎜となっていますが、これは762㎜の誤りでしょう。

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DSC_6727094▲ 博物館には特産品やかつて使用されていた生活品の展示も行われています。

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DSC_196604904_時刻表_051001&15▲ 津軽鉄道開業当時の津軽中里駅のきっぷ窓口です。津軽鉄道は五所川原~金木が1930年(昭和5年)7月15日に開業、1930年(昭和5年)11月13日 に中里(現;津軽中里)が延伸開業しています。

運賃表から大澤内芦野公園金木嘉瀬昆沙門津軽飯詰が同時開業だったのが分ります。

手元にある1930年(昭和5年)10月1日と1940年(昭和15年)10月1日発行の復刻版時刻表を見てみますと運行本数は金木開業時で上下各7本ですが中里まで全通時には上下各6本に減っています。若干の時刻改正も行われたようです。

04_時刻表_050715_100▲ 1930年(昭和5年)10月1日発行の時刻表からの転載です。上下は各7本です。2等車両があったとは驚きです。運賃は3等の倍掛けです。一体どんな車両だったのでしょうか。

04_時刻表_150401_100▲ 1940年(昭和15年)10月1日発行の復刻版時刻表からの転載です。展示してある発車時刻表とは変わっています。列車番号は100番台と200番台に分かれています。どちらかがガソリン車だったのかも・・。最速で所要時間は52分、平均速度は23.9km/hと今よりはかなり遅かったようです。

博物館内の鉄ちゃん関係の展示は以上です。今まであることは聞いていましたのでいつかは訪問したいと思っていました。これですっきりしましたので、夕焼けとのコラボ撮るために今日は川倉~芦野公園のカーブ築堤へ向かうことにしました。
DSC_1975051▲ 17:03 築堤に行く前に大沢内~川倉のオーバークロスで待ち受けました。影がかなり長くなってきました。今日の現地日没時間はWeb情報では18:28です。

DSC_1991052▲ 17:20 川倉~芦野公園の築堤を行く津軽中里行きの単行13レ。この位置からだと抜けるのですが、夕日はもっと右寄りに沈みます。
【DATA】 ズーム98㎜、1/1000ビョウ、F9、ISO400

DSC_2007053▲ 18:17 本命の津軽五所川原行きの18レが来ましたが場所的に車内からも夕日が見えるくらいにはなりません。この時期では仕方ないのかも・・。築堤がインカーブになっているのも原因です。難しいですね。
【DATA】ズーム105㎜、1/1000、F9、ISO400

今日の宿は唯一空いていたサンルートパティオ五所川原です。五所川原には2つのサンルートホテルがありますが、以前泊まっています片方は駅に極めて近く温泉もあってくつろげます。こちら側は初めて宿泊しましたが周りに食堂・コンビニもなく寂しいところにありました。 Part3へ続く

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