尾鉄のお宝発見

「尾鉄」と書くと「尾小屋鉄道」と「尾道鉄道」の2つがありますが尾道鉄道の方です。尾鉄は1964年(昭和39年)8月1日に尾道ー石畦(いしぐろ)間が廃止され、バス会社に転身しています。現在の中国バスにあたります。石畦から先の御調(みつぎ)町市まではそれ以前の1957年(昭和32年)2月1日に廃止されています。先に廃止されたこの区間には最急勾配40‰の長い峠越えがあり、私鉄では珍しいスイッチバック駅 諸原(もろはら)駅がありました。今に残る尾鉄の遺構としては4号トンネルが有名ですが、それ以外ではかろうじて諸原駅前後の線路跡が道路として残り、スイッチバック駅であったことが現認できます。2014年にどですかでん氏と現地を訪れたときのスナップです。

2014-10-27 諸原駅跡

2014-10-27 諸原駅跡

左手にまっすぐ伸びる舗装道路が市から諸原駅に入ってくる線路跡です。右手に斜めに登って行き、両側に桜並木があるのが、尾道方面への線路跡です。

駅ホーム跡の痕跡は今では定かではないので、2011年尾道学研究会発刊の「タイムスリップ・レール・・・オノテツ」から写真を引用させて頂きました。

1955年(昭和30年)5月27日に撮影された諸原駅

1955年(昭和30年)5月27日に撮影された諸原駅

この区間が廃止されてからもう60年が経ち、この写真が撮影されたのは61年前です。写真に赤い矢印を入れましたが、ホームに何やら看板が立っているのが見えます。実はこの看板の実物を思わぬ所で発見しました。

諸原駅名所案内看板

諸原駅名所案内看板 平成28年8月21日 尾道市御調歴史民俗資料館にて

尾鉄の終点は御調町市だったのですが、この終着駅のあった地点から南西方向に約2.5Kmのところに尾道市御調歴史民俗資料館があります。同館は木造2階建ての旧河内村役場の建物を資料館に改装したものですが、訪問者が少ないせいか毎月第3日曜日だけの開館です。以前から一度訪問しようと思っていましたが、なかなかタイミングが合わずようやく先日訪問しました。予想通りどこにでもよくある農具や民具類を所狭しと展示した民俗資料館ではありましたが、廊下の壁に掛けられた看板を見て目を疑いました。尾道鉄道諸原駅の名所旧跡案内看板なのです。説明書きも何もなく、月に一度鍵を開けにきて、扇風機しかない酷暑の中で1日を過ごされているオバサンに聞いても判らないので 興奮しながら写真に収めて帰りました。薄暗い廊下で見たときは 駅舎の中に掲げられていたのだろうと勝手に思い込み、60年も経てば字もあせるだろうと納得していましたが、「タイムスリップ・レール・・・オノテツ」で現役時代の写真を見つけて、この看板が実物に間違いないと確信するとともに、屋外で雨風に晒されていたものが 良く残っていたものだと更に驚いた次第です。左上の文字はしっかりと残っていて

諸原駅霊蹟御案内、仙人塚浄聞坊御廟 是ヨリ西一丁、龍王山峯登山口 山頂へ十二丁、景勝十選ハイキングコース、霊水温泉(内湯)、櫻花隧道、尾道鉄道株式会社

と読み取れます。櫻花隧道は線路両側にあった桜並木のことでしょう。今ならさしずめ「桜トンネル」と言いそうですが、「櫻花隧道」という表現に古き良き時代を感じます。また昭和30年代でも距離を〇丁と言っていたことも判ります。それ以外の名所ですが 今は夏草に覆われているので現地には踏み込めませんので、冬場に再訪し 仙人塚、景勝とは何を指すのかなど踏査してみようかと思っています。どですかでん殿 またお越しになりませんか? さて絵の方はかなり色あせていますが「バス停留所」との標記があります。尾鉄はまだ鉄道を走らせていた1941年(昭和16年)9月に尾三自動車株式会社を吸収し、路線バス事業に参入しています。当地で尾三(びさん)と書くと尾道と三原の意味と尾道と三次の意味がありますが、これは三次の方です。当初市駅で三次行きに乗り継ぐスタイルだったようですが、乗り換えが不便だということでのちに尾道駅から三次行きを走らせていました。だから鉄道に並走する道路にバス停があったのです。同じ会社のバス路線とは言え、鉄道廃止を早める競合状態でもあったことを示しています。

タイトルを「お宝発見」と書きましたが、保存されていたものですので「発見」は言い過ぎなのですが 写真に写っていた物と現物が60年の歳月を経てつながったという意味でうれしい発見でした。撮影者の細川延夫氏はすでに故人ですが、ご存命ならきっと喜ばれたに違いないと思っています。記録を残して頂いた細川氏にも感謝です。

尾鉄のお宝発見」への6件のフィードバック

  1. 西村様
    尾道鉄道は、私は一度だけ尾道駅で見た記憶があります。それは、昭和39年8月19日のことで、広島からの帰りの列車の窓からでした、同年の8月1日に廃止されたと聞き、私が見たのは廃止直後の姿だったのですね。たしか電車もホームに据え付けられていた記憶があるのですが。
    さて、諸原駅の名所案内の看板、おそらく資料館関係者もご存じないでしょう。まさに「お宝発見」ではないですか。地道に地元の鉄道を発掘・調査されている西村さんに敬意を表します。それを撮っておられた細川さんも、たまたまとは言え、貴重な記録を残されたものです。

    • 総本家青信号特派員様
      コメントありがとうございます。私は尾鉄の現役時代を知らないのですが、当地で暮らし始めた頃に線路跡があちこちに残っていたのを目撃しています。しかし写真には収めておらず、今になって悔やんでいる始末です。民俗学者の宮本常一氏の「現在の何気ない風景を記録しておくことは、100年後の人にとっては100年前の貴重な記録になる」という言葉に感銘を受けた一人です。細川氏が地元の鉄道風景をこまめに残されたことにも通じます。お宝については尾道学研究会事務局にも連絡し、これがきっかけになって、思いがけず両備軽便鉄道の貴重な情報を入手することができました。このような 人とのつながりも大切なお宝だと思っています。

  2. 尾鉄のお宝発見
    投稿日時: 2016年8月23日
    投稿者: 西村雅幸様
    私は諸原駅に家を所有する者です。
    投稿サイトの諸原駅舎の位置が違うと思います、何故なら投稿サイトのモノクロ写真を拝見しまして諸原駅舎の後ろにヒマラヤ杉が2本見えております。
    現在そのヒマラヤ杉は今も元気に現地に根付いております。
    そのヒマラヤ杉の前に諸原駅舎は有ったとモノクロ写真から推測します。
    推測が事実としますと投稿サイトの諸原駅舎は約50m山奥に有ったと思われます。
    そこに私が所有する家が有るのです。
    ご感想をお聞かせ下さい。
    モノクロ写真感慨深く拝見致しました。
    ありがとうございました。

    • 小沢康博様
      コメントを頂いているのに気づかず、返信が遅くなり失礼しました。駅舎の位置についてご指摘頂きありがとうございます。私は三原の住人で、現地まで1時間弱で行けますので改めて現地を訪ねてみることに致します。6年半前に訪問して、この投稿をしたのですが、もう1枚写真を添えてみます。クルマの後ろは生垣があるのですが、そのあたりが駅舎だったように思えます。いずれにせよ再取材してレポートすることに致します。

  3. 西村雅幸様
    返信ありがとうございます。
    モノクロの写真を生まれら時から諸原にいる方にお見せしました。
    現在の家が諸原駅の跡だそうです。
    スイッチバックで入って来た電車が複線(2線路)となり、家の前の庭がスイッチバックからの電車が停まっていた位置です。
    その前のアスファルト道路の位置がもう一方の分岐した線路で貨車を停めて山からの材木を積んでいたそうです。
    近所の方に聞いて納得致しました。

    • 小沢康博様
      コメントありがとうございます。まだ現地に行けていませんが、なるべく早く再訪しようと思っています。山からの材木を積み込んでいたというお話は貴重です。昭和32年以降、無蓋貨車はト152,153(大正14年製)の2両だけでしたが、これが使われたのでしょう。尾鉄の貨物輸送は西尾道にあった肥料会社への臨時貨物だけしかわからないので、木材輸送は貴重な証言です。

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