沖縄に鉄道を求めて(その1)

47都道府県のうち今まで一度も足を踏み入れたことがなかったのが沖縄県です。最大の理由は生きた鉄道が無かったためです。今回 別の目的で初めて沖縄県を訪れたついでに、かつての鉄道の名残を探してきました。沖縄にあった鉄道は、大正3年5月に開業した「沖縄電気軌道」と同じく大正3年12月に開業した「沖縄県鉄道」です。沖縄電軌は昭和8年8月にバスとの競争に敗れて廃止されています。一方の県鉄は 那覇を起点に与那原(よなばる)線、糸満線、嘉手納(かでな)線の3路線を有して県南部の主要な交通機関として機能していましたが、終戦直前のすさまじい艦砲射撃や空襲、地上戦などで壊滅し、戦後復興されることはありませんでした。この他にもサトウキビ輸送のための馬車軌道やトロッコ軌道もあったようです。そして平成15年8月の沖縄都市モノレールの開業まで 約60年近く鉄道のない時代が続きました。ただモノレールは鉄道であって鉄道ではないというイメージが強いのですが、ここでは鉄道として扱うことにします。

1.両備軽便鉄道 4号機のなれの果て

今回の沖縄鉄道探訪の最大目的はこの機関車に逢うことでした。かつて地元広島県下福山・府中間の両備軽便鉄道時代に4号機として活躍していたドイツ ヘンシェル製の蒸機の下回りだけが 那覇市内の公園にひっそりと保存されているのを見ないわけにはゆきません。

平成28年9月28日 那覇市壺川東公園にて

平成28年9月28日 那覇市壺川東公園にて

両備軽便鉄道は1914年(大正3年)にヘンシェル製10Ton機2両と9Ton機3両で開業するのですが、4号機だけは大正7年に南大東島の東洋製糖(戦後は大東製糖、大東糖業)の1号機として南海の孤島に送られ サトウキビ輸送のシュガートレインとして活躍します。戦禍を乗り越え、DLにバトンタッチするかたちで昭和39年に廃車されます。この島内の鉄道も昭和58年にはトラック輸送に代わり、廃止されてしまいます。島内に27Kmも敷かれていたレールはすべて撤去され 機関車の多くや貨車の車輪などもすべてスクラップ屋に売却されました。ところがこの元両備4号機(大東1号機)と加藤製作所製DLの5号機は命を永らえ、沖縄本島に送られ、ゴルフ場に展示、保管されるという運命をたどります。ただ、いつの時点でボイラやキャブがなくなり、下回りだけになったのかは不明です。

両備時代の4号機の写真は持ち合わせていませんが、開業日の1号機の写真をご覧下さい。

両備軽便1号機  児島書店発行 復刻両備軽便鉄道付録写真より転載

両備軽便1号機  児島書店発行 復刻両備軽便鉄道付録写真より転載

1,2号機は10Ton機ですが、4号機は9Ton機ですので細部は違うのでしょうが、キャブが一段下がったスタイルは同じです。

反対側面

反対側面

メインロッド、サイドロッドは両側とも健在で、弁装置の短いロッドが1本なくなっていました。雨ざらしにしては 塗装も比較的しっかりしていました。

フロントデッキ側

フロントデッキ側

もう1両保存されているのが加藤の5号機です。

加藤製 5号機

加藤製 5号機

岡本憲之著「加藤製作所機関車図鑑」によりますと、この5号機関車は昭和42年1月製 製番LM67215の10Ton機で、加藤機関車の最後の製品のようです。同図鑑の図面を引用させて頂きました。

「加藤製作所機関車図鑑」より

「加藤製作所機関車図鑑」より

図面ではそれぞれの車輪への砂撒き管は見えますが、砂箱の位置がよくわかりません。実機ではボンネット上に四角い砂箱が乗っており、砂撒き管の一部も残っています。不思議なことに前の多段式鋳物バンパーに朝顔形連結器が上下2つ取り付けられていますが、後ろは多段式バンパーだけで、連結器はありません。

大東製糖5号機と1号機

大東製糖5号機と1号機の下回り

公園内には説明看板が3つありました。

説明看板(大)

説明看板(大)

説明看板(中)

説明看板(中)

説明看板(小)

説明看板(小)

説明看板(中)に寄贈者として ㈱リウエン 宮城仁四郎 という名があります。この宮城仁四郎氏は 戦後大東糖業の設立に関わり、社長も務められ のちに「糖業の父」と呼ばれ 戦後沖縄の復興に尽力された有名人であることがわかりました。氏のグループ企業には製糖の他セメント、不動産、ホテル、ゴルフ場などがあり、南大東島でスクラップにされてもおかしくなかった2両の機関車とレールの一部をわざわざ400Kmも離れた沖縄本島へ運び、ゴルフ場に展示し、最後は市の公園に寄贈されたのだろうと推察します。

一方 説明看板(小)には 「手前のレールは、当公園の工事の際に出土した軽便鉄道のレールです」と書かれています。ちょうどこの公園のある場所は かつて県鉄の線路が那覇駅を出て次の古波蔵(こはぐら)駅に向かう途中にあります。その跡地を公園として整備する際に大空襲で破壊されたレールが出てきたのでしょう。ところがこの出土レールは一時期 看板の前の地面に置かれていたそうですが、いつの間にやら 不届者が持ち去ってしまって今はありません。

南大東島から来たレール

南大東島から来たレール

ヘンシェルや加藤が乗っているレールは南大東島のもののようです。

ということで 1913年ドイツ生まれの白寿を過ぎたヘンシェル機にご挨拶をするという第一の目的は達成できました。次は与那原駅をご紹介します。

沖縄に鉄道を求めて(その1)」への4件のフィードバック

  1. 沖縄には戦前かなりの鉄道が有ったようですが戦時中にことごとく破壊されそのほとんどが残っていません。痕跡は少し残っているようですが いまわしい記憶につながるようであまり発表されていないように思われます。ここ十数年沖縄へ行く機会が多いのですがなかなか鉄道痕跡をたどることができませんでした。西村さんの貴重なレポート次回以降を含めて楽しみにしています。

    • INBUSE様
      沖縄の鉄道痕跡をたどるには その2でご紹介した「おきなわ軽便鉄道マップ」がお勧めです。ただこれには県鉄しか載っていませんので、沖縄電軌や馬車軌道もとなると同社刊の「図説 沖縄の鉄道」も必需品です。

  2. 勝手に小型鉄道探検団西村名誉団長様 名誉団長様、自ら波濤をひとっ跳びして沖縄での小型鉄道探検記を興味深く読ませていただきました。両備軽便鉄道の機関車が南大東島でサトウキビ運搬で活躍していたとは、さすが探検団の名誉団長様です。私のようなぐうたら団員は見習わなければなりません。次回の探検記を楽しみにしています。

    • どですかでん様
      今回は鞆鉄道に続く両備軽便の取材の一環でもありました。実は壷川東公園にヘンシェルや加藤が置かれているのはGoogleのストリートビューで確かめてはいましたが、現地に行ってみるまでは もうスクラップにされているのではと心配でした。2両とも比較的良好な状態だったので安心しました。ただ特にヘンシェルについて何の説明看板もなく、数奇な運命でここにあるかということが地元の人にわからないのは残念に思いました。

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