糸崎と鉄道連絡船

キハニ5000の話題に対して戦後撮影の貴重なお宝画像をご披露頂き、感謝に堪えません。もうひとつだけ糸崎関連の話題を凝りもせずにご紹介させてください。昭和14年8月26日の中国新聞備後版の記事です。

昭和14年8月26日 中国新聞備後版

本州・四国の鉄道による連絡は まず明治36年3月18日に山陽鉄道が岡山・高松航路と尾道・多度津航路を開設しています。明治43年6月12日に宇野線が開通し、併せて宇高航路も開業し、旧来の岡山・高松航路と尾道・多度津航路は廃止されます。ただ宇高航路ではしけによる貨車航送が始まるのは大正10年10月で、昭和5年4月になってようやく自航船による貨車航送が実現します。この新聞記事が載った昭和14年当時は貨車航送も行われている宇高連絡船の時代でした。もちろん本州と四国を結ぶ民間航路は鉄道連絡船以外に多数あり、しのぎを削っていました。この記事によれば「中四鉄道連絡船問題が再燃」していたようですが、糸崎・今治航路案が俎上に上る一方で 鉄道省はすでに呉市阿賀港または仁方港と伊予北条港または菊間港を結ぶ航路を昭和17年度に設けるとも書かれています。

この2日後の同紙にも関連記事が載っています。

昭和14年8月28日 中国新聞備後版

鉄道省が呉・伊予北条航路の開設を決めているのにもかかわらず 糸崎・今治航路を推す動きがあったり、尾道がそれを牽制したりしているのがよくわかりません。いつの時代にも我田引鉄ならぬ我港引船?的な綱引きが繰り返されていたようですね。ただどの航路になるにせよ、車両航送ではなく旅客と郵便・小荷物扱いの連絡船のように思われます。いわゆる連帯運輸の利権の争奪戦なのでしょうか。

先に糸崎臨港線についてのレポートを致しましたが、糸崎だけのことを考えれば岸壁まで線路は敷かれていますので 車両航送設備を設けるのは容易だったかもしれません。しかし相手の今治側は今治駅から港まで少し距離があり、臨港線でも引かなければ車両航送は難しく、隣の波止浜港の方がまだ適していたかもしれません。いずれにせよ戦前から宇高航路以外の構想はいろいろあったようですが 戦争でそれどころではなくなり、戦後昭和21年5月1日の仁方・堀江航路開設でようやく実現の運びとなりました。仁堀航路は戦後 輸送量が急増した宇高連絡船の補助航路として 戦前に検討していたプランを実行に移したように思えますが、実態としては不便極まりない連絡船で、知名度も低く存在感のない国鉄連絡船でした。仁堀航路は 当初四国鉄道局の管轄でしたが、昭和31年に広島鉄道管理局に移管されています。急行安芸が仁方に停車し、郵便・小荷物の積み下ろしをしていましたが、連絡船に乗り換える人は殆ど無かったとも言われています。昭和40年からは自動車航送も行っていましたが、民間航路と対抗できるはずもなく 昭和57年7月1日に航路は廃止されました。もし仁方・堀江ではなく糸崎・今治航路が実現していたら「糸今(いとこん)航路」とでも呼んだのでしょうか。もし車両航送までやっていたら、糸崎駅構内には控車を従えた機関車が忙しく走り回っていたことでしょう。三原・今治間には長く国道フェリーが運航されていましたが しまなみ海道の開通により この国道フェリーは廃止されました。仮に「糸今連絡船」が実現していたとしても 同じような運命を辿ったことでしょう。ここでも記者は「今治・糸崎港の連絡はすこぶる有力視されてゐる」と希望的観測でしめくくっていますが、夢物語で終わっているのは以前のガソリンカーの導入計画と同じです。

先に糸崎の臨港線に残る山陽鉄道時代の橋台の記事を投稿しましたが 投稿したあとになって昭和56年当時の臨港貨物駅の航空写真を入手しました。海岸の貨物駅には2基のテルファもはっきり写っています。もし「糸今航路」が具体化し、車両航送も構想するなら、連絡船を接岸させる航送桟橋を作りやすい地形、線形であったということがおわかり頂けると思います。なおこの写真でA地点に貨車が8両写っていますが、この臨港線から写真の左上方向に糸崎倉庫専用線が分岐していて 臨港線が引き上げ線でもあったので 倉庫線への貨車ではないかと思われます。

昭和56年 松浜臨港貨物駅

この航空写真が撮られた当時 私も地元に居ながら一度も訪ねることなく、今頃になって当時の写真が無いかあちこち探し回っている始末です。尾道にも臨港線はあったのですが、それも記録しておらず悔やんでいます。

愚にもつかない昔話にお付き合い頂きありがとうございました。

糸崎と鉄道連絡船」への4件のフィードバック

  1. 仁堀航路は確か宇高航路の予備=爆撃等で被害が出た場合に備えて零細航路を買収したと聞いています。お説の通り、仁方側はともかく、堀江側は国鉄駅からバスがあったぐらい離れており、小生は勿論バス代を節約して歩きましたが。ただ一筆書き乗車券のためには有難かったのは確かです。関門連絡船や宇高航路は別として、国鉄はなんでこんな零細航路や盲腸線を長らく保持していた/しているんでしょうね。今なら宮島航路、鉄道なら和田岬線、かつての清水港線などもそうですが、単に長年の慣性なのか。それとも組合のため?よう分らんです。

    • yuguchi様
      早速のコメントありがとうございます。私も仁堀航路を一度だけ利用しましたが実はカーフェリーとして乗りました。従って堀江側にバスがあったことは知りませんでした。宮島航路だけは広電傘下の松大汽船、広島市内やマリーナホップという大駐車場がある元の広島空港跡地からの直行便などと共存共栄していて 厳島神社や平清盛のおかげで元気です。盲腸線で言えば長門市・仙崎間もまだありますね。デジ青で盲腸線シリーズもおもしろいかも。

  2. 西村さま
    いえいえどうして、愚にもつかないお話などではありませんよ。立派な研究論文だと思います。かつて本四間の連絡船に関して多くの計画(構想)があったとは全く知りませんでした。連絡船は鉄道ジャンルの中ではちょっと異色というか異分野のため、雑誌にも殆ど取り上げられたことはないと思います。取り上げられても運航中の航路ばかりで、しかも当たり前ですが鉄道線間の連絡という視点から論じられていましたから、こんなにあった構想までは目にした記憶がありません。そういう意味ではいい資料になるのではないでしょうか。見た目には三原・糸崎という地域の話題かもしれませんが、その内容は未成船?計画の貴重な情報です。
    今回とこれまでの資料からすると、臨港線を有する糸崎航路は恐らく有力航路と考えられたことでしょう。惜しむらくは仰るように今治側に問題ありで、臨港線を新設までしていたかどうかは怪しいところでしたね。
    それにしても糸今(イトコン)航路になっていたら、やはり細々としたものだったのではと思います。
    ところで仮に「地域情報はもういい加減に」という声が出ても、小生は断固「西村さんを守る会」を立ち上げて応援しますから、ぜひ今後も研究にお励み下さい。期待しております。

    • 1900生様
      涙なしでは読めないコメントをありがとうございます。   ここまで記入したところで 横のテレビが宮島航路の新造船「ななうら丸」がエンジントラブルで立ち往生中というニュースを伝えています。冬の青函連絡船のことを思い出しました。青函の洞爺丸事件などの大事故は有名ですが、チョコチョコと小さなトラブルはあったのでしょうね。
      ローカルニュースをこれからも投稿しますので、応援よろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください