【83126】寒中北海道見聞録 半世紀前の旅-4号車

明けて2月27日、今日は札幌近郊の私鉄見て歩きであり、勿論お目当てはカマであります。コースは大夕張鉄道の大夕張炭山、夕張鉄道(または夕鉄とも記しています)の鹿ノ谷で、あとは乗り鉄で札幌に戻ってくるということにしました。

ところで、この寒中北海道号は少々遅延気味であるので、4号車では欲張って札幌を離れて道東に行くところまでをカバーすることにしました。相変わらずのすかたん珍道中で、この段階では寒い北海道を鉄道で旅をし、鉄道を楽しむというレベルに達していないのですね。そういう目で見て欲しいのです。もたもたしていると春になってしまいます。急がなければ・・・。

■大夕張に向かう

先ず、7:35発「夕張1号」で大夕張鉄道に向かって出発。

←岩見沢(夕張) キハ22314①+キハ22210増① 以上札サウ(岩見沢~追分間逆編成)。青信号では藤本大先生初め多くの人が北海道について述べておられるので、車輌のことは余り述べないことにして恥をかかない様にしたいと思います(というか分からんというのが正しいかもしれない。多分そうである)。またこの頃の夕張はまだ石炭産業がソコソコの時代であったので、活気がありましたので、都庁から市長がやってきて改革をしていくということなど想像も出来ない時代でありました。夕張以外でも採掘した石炭を長大な貨物に仕立て牽くカマがみられたものでありますが、この辺の事情については次の5号車で実感することになります。

いよいよ大夕張に乗り込みます。大夕張鉄道は清水沢から出るのであるが夕張線の一つ手前の南清水沢は委託駅なのであろうか。女性の駅員がおりました。寒いのに手袋もコートなしに、大丈夫なんでしょうかね。寒くはないのでしょうか。

大夕張の女子駅員。さむくないのでしょうかね。(写真=KAWANAKA 。車内写真共)

 

大夕張=車番? 車中での一こま。車掌が車内を巡回している。ダルマストーブの排気筒が見える。

 

さて、清水沢で乗り換えた大夕張鉄道の列車のカマはNo.6で国鉄でいう9600に当たる。カマ従うのは客車2輌と貨物数車輌、混合列車である。大夕張の軌道は大夕張炭山に至るまで一方的な上り勾配のため、全長17.2kmをたっぷりと1時間も掛けて走る。※逆に大夕張炭山からは下りで、列車は大揺れで下る。編集者はその後の訪問時に、ロコに添乗を許されたが激しく揺れるカマで鉄橋など通過のときは本当に恐ろしかった。この上り勾配を走る列車はかつての(現時点から見ればかつての)飯山線、木次線の重荷を牽いて息も絶えだえ喘ぎながらよじ登ってくる走りっぷり(というより、這い上がってくる姿)と同じである。小林氏の感想は、北海道でさえ、私鉄でしか味わえなくなったのは実に残念である、と青信号22号に記されている。

シューパロ湖付近を走行中。牽引機はテンダーがC56のような切り欠きテンダーなので4号機である。4号機は昭和15年日立製の自社発注 9600型。 (写真=西村)

※ついでに、青信号22号の記事にある切符(車内乗車券)をお目に掛けましょう。当時はスキャナもパソコンもなく、あるのは萬古(バンコと読みます)とかいう謄写版印刷だけなので、こういうものも全て手書きで行なった。ふーんと言って一瞥するだけにしては涙ナシでは見られない努力があったということ、その頃は未だ生まれていない若い人にも理解して欲しいと思います。その切符を載せます。良く出来ているでしょう。右がほんものの切符。

■大夕張

さて、到着した大夕張炭山では50分間ある予定でありましたが何せ予習して来なかったために機関区の発見に戸惑い、やっと見つけたときは帰りの汽車の発車15分前という有様でありました。従って区内を「さっささ」と巡りめぼしい写真だけを撮って退散することに相成ったわけであります。折角なので撮れた写真でも載せておこうと思います。

 

大夕張鉄道 C1101
昭和19年日車製。尺別鉄道の発注だったが尺別には入線せず、大夕張に来た。まさに戦時型C11の姿である。廃線後愛知県の長島温泉に売却されたが、後年そこで解体された。
写真は大夕張炭山機関区で ラッセル車と自分自身がターンテーブルで転向しているヒトコマ。
キ1は南大夕張駅跡に保存され、近代化産業遺産の指定も受けている。(写真=西村)

 

■鹿ノ谷へ向かう

汽車で大夕張まで戻り、夕張鉄道の急行バスで夕鉄の鹿ノ谷に向かう。汽車の切符はこれで、10円。何といいましょうか、この価格。

鹿ノ谷の機関区ではカマの解体をしていました。

鹿ノ谷では時間がなくて慌てるということはなかったので、見た車輌は逃さず撮れた(はずであります)。写真をべたーっと貼り付けます。

夕張鉄道28号機 前国鉄49650 九州から来たのか門デフ機
石炭満載のセキを従え 後部補機の助けを借りて スイッチバックの錦沢の山越えに出発直前の様子。(西村)

昭和元年 日立製の自社発注機。11~14号機がいた。夕鉄廃止まで活躍し、廃止後は個人に売却されたが 現存しない。

次に、ここで出会ったDCを2枚。

※本日の見学はこれで終りというのではなく、その後色々再会を果たしたりすることになった。これについては、本見聞録に書くには少しボリュームがありすぎるので、おそらく西村氏が、記事を仕立ててUPすると思われる。それを併せてご覧していただきたく思います。

■栗山経由で野幌へそれから札幌へ戻る

あれこれ2時間ほど撮ったあと再び夕張鉄道バスで栗山に向かう。本当は鹿ノ谷~栗山を乗ってみたかったと小林氏は青信号23号で壊述しているけど、まあ結果はそうでありました。ただ、適当な時間に汽車がなくてせめて栗山~野幌(のっぽろ)だけでもと思ったからであります。

乗った列車は栗山発15:26。それが10mレールをぶっ飛ばす。25mレールなら単車で走ると先頭のボギーがDadanとジョイントをたたき、それから後ろのボギーが少し空いてdadanと軽く伝わってくる、それから通常は再び先頭のDadanと続くのであるが、後ろのdadanが来る前に前のDadanが来るものだから、そしてその間にdadan。せわしないことこの上ない。準特急先輩がその頃曰くところの「京阪神急行の特急が高槻市駅を通過するときの馬に乗っているよう」な振動と打撃音が伝わってくる。ここは線路が良くないので乗り心地もへったくれもあったものではない。次いで野幌から711系ECに乗ったのであるが、その乗り心地は大したもので、台車構造はシンドラ、シュリーレンと同じであるのと線路が良いので、小林センセは正直言って京阪の1900より良かったんだって。小林氏はどんな場合でも1900が一番であることを信じて止まない男であるので、これにはショックであったようである。青信号22号には小林氏の印象では恰も阪急から京阪に乗り換えたようであったと記してある。

野幌にて クモハ711902

束の間の札幌滞在

711系ECを満喫して札幌には17時過ぎに到着した。先ず市電を撮ることにして、兎に角ススキノまで歩いてみた。またまた道路が凍結しておりカチンカチンの状態。下手するとまたまた尻で体重を支えることになる。このときは尻に痛みを感じることなく無事ススキノに着いて、美味い札幌ラーメンを食しようということになり有名な店を探すも中々見つからず、その辺の店でお茶を濁すことになった。ラーメンは塩、味噌、醤油の3種があったのだが、今から考えると当然であるが当時はそんなことすら知らなかった。3人で3種のラーメンを注文し、それぞれが別のラーメンを食した訳であります。以降自分が食べた味を札幌ラーメンと思い込むことになったのであります。そのあと、キャラバンシューズの防水スプレイを求め川中スポーツ店(現在でも盛業中)なる店を見つけ入ったが、売っていなくて川中はアカーンということになったり、ついでであるのでテレビ塔や夜の時計台の観光もちゃっかりとこなしました。それで駅には21:30位に戻ったのであるけど、なぜか急に誰からともなく寝台車で行こうということになり22:23の釧路行き423レの指定を決めた次第です。(なお夕食をラーメンだけで済ましたかといえば、スクラップブックにこの日付けでしうまい弁当、すしの弁当包みがあった、ということは車中かどこかで食ったんでしょうかね。昼飯とは思えないし今となってはわかりませんが大飯食らいのKAWANAKAがいたのでラーメンでは足りないと思い念のため購入したのでしょうか)

423列車

早速、窓口へ行き、上段3席を求めたが空きがあるようなので1,2,5番が手に入りました。青信号22号の記録では全部上段とあるが、5番は中段であった。上段にしたかったのはコストの理由であったが、さらに厄介な問題が発生した。1番と2番は向かい合わせで良いのだが、問題は誰が5番に行くかである。結局厳正な抽選を行なった結果、川中氏がその栄誉を受けられることになり、ひとり寂しく去っていかれた。なお、青信号22号で間違いがあり全部上段ではなかった。5番が中段であって、川中氏は狭い中でも比較的マシなお召し席を確保できたという次第である。中段は900円と100円高かった。※・・・と書いてふと気が付いた。我々は勢いで大変な贅沢をしていたのである。時代の流れとはいえ、湯口先輩の頃の1日の旅費100円と比べてどうだ。寝台だけで先輩の9日分も消費しているのである。寒い中凍死する訳でもなく、駅員に水の洗礼を受けるわけでもなく、ブランコするわけでもなく、チビリとやりながら寒くてもパンツ1丁で寝ているうちに目的地に達することが出来る。寝台車というだけで同じ普通列車の仲間なのですが、いやあ至福の時間を感じながら列車は道東に向かったのであります。

ところで、寝台の車輌であるが、配置表で調べて見るとどうも札オタのスハネ30であろうと思われた。えらい車に乗せられるなあ、と思っていると果たして入ってきたのはやはり外れて欲しいと思っていた札オタのスハネ30でありました。

ところで、小林氏にとってはもう一つの問題があったのです。小林氏には本人より優秀な弟さんが居て頭が上らないのだそうである。「寝台車なんかに乗ったら帰ったら弟に叱られる」と2人に泣きついたのです。そこで2人は寝台利用証明書なるものを発行したのです。

なんせ、小林氏の弟さんは徹底したドケチ(らしい)。「寝台車?無駄使いや!!」と言うに決まっている。只でさえ色々と金を借りているのに益々頭が上らんようになる。しかし、これさえあれば一安心というものだ。※その結果は聞いていません。半世紀前のこの結末を聞きたいものですねえ。デジ青のコメントにでも書いて下さい。

その423レの編成は、

←釧路 DD51530+⑥オハフ331020+⑤オハ35777+④オハ35731+③オハ35849+②スロ529+①スハネ3049+スユニ61507+マニ60245+マニ322099

③号車暖房が故障して寒かった。②号車とスユニ61は釧クシ、①号車とマニ60は札オタ、マニ32は東スミでありました。

※これが普通列車の編成。スハネ30である、といっても卑しくも寝台もあり、なんとロも付いている夜行なのである。今の普通列車で想像できるであろうか。昨今、デラックスな夜行バスが話題になっているが、バスの個室といえども快適さでは真っ平らの寝台車に勝るものはない。JRも夜行列車のアコモを見直し最近のモダンなものに設えなおし、座席も普通車以外は1+2列、パーティションでもカーテンでも付けてプライバシーを尊重し、電源、テーブル、レッグレストなどを装備して途中の深夜客扱いはしないなどコストを下げて設定できないかと思ったりする。運行が始まって間もない頃小生、西村氏のバスの紹介もあって広島から横浜までCバス会社の個室の夜行バスに乗車した。残念ながらゼログラビティ座席は満席で体験できなかったが、正直言って期待はずれ、メディアのコメンテーターは決めた通りの良いことばかり言うが、足は十分伸ばせない、曲げたままである。個室といえども客車の車掌室のようでやはり狭い。部屋のフレーグランスなど小生は興味がない。思ったほどシートは広くはないなど、乗った瞬間、しまった!と後悔した。あれだけ需要がある夜行バスから列車が利用客を取り返し、時間に正確な夜行列車の復権を果たしたいと切望するがどうであろうか。バスを利用して喜んでいる若い人にも夜行列車の楽さを知ってもらいたい。勿論、コスト・運賃の見直し、容易に何処からでも買えるチケットのシステムなどは必須であるが。

  • ※ ※ その後、会社人になってから(ある程度勝手に仕事をさせてもらえるようになってから)札幌から夜行で釧路に向かうことが時々あった。直行機ではなく、それを利用した。そのころはこの普通列車ではないが、夜行急行を使うと直ぐあくる日の朝から仕事が出来るという理由で利用したものである。仕事が終わると一杯したあとで今度は今朝着いた夜行で札幌に帰るという工程をこなした。思い出したが釧路から札幌に着いて準特急先輩に無理やり小樽まで乗り鉄を付き合ってもらったこともあった(無茶言ってすみませんでした)。

ところで小林氏は初めての寝台車ということに期待したのでありますが、それほどでもなく、スペースは狭いしスハネ30やからショックがきつくまたよく揺れたということでありました。一方、KAWANAKAは3段寝台いうたらこんなもんと思っていた。20系でも大して変わらないと思ったし、狭さは一緒やなあ、と経験していたので上下の振動だけは敵わんかったけど、知らぬうちに深い眠りに誘われていきます。

3人を乗せた423レは狩勝を超え、道東に入っていきます。

5号車に続きます。

付録 ↓

札幌駅オロハネ10501
こんなのも捕れました

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寒中北海道見聞録 半世紀前の旅-4号車” への2件のコメント

  1. kawanaka_t 様
    速いのか遅いのかよくわからない準特急より
    天橋立の股のぞきに続いて登場させていただき恐縮です。当時クラブでは阪急京都線は路盤が薄く、10メートルレールが続くなどという話を先輩方から聞かされたことがあります。専門家でないのでよくわかりませんが、昔は名古屋までの延伸計画もあり、「つばめ」を追い抜く高速鉄道でコンパウンドカテナリーをはりめぐらせた直線区間の上を猛スピードが出るという印象を持っていた元の新京阪線なので不思議な感じがしたものです。ただいえることはkawanakaさんの地元高槻市駅を特急が通過するとき、10メートルレールと思われる箇所を100km/h以上で通過するのでその音が凄かったことを覚えております。馬に乗ったことはありませんが、私にとっては不快な感じよりも競馬の馬の様に感じ高槻市通過が楽しみのひとつでした。
    スハネ30は最悪ですね。私も明星で乗りました。TR23という台車でしたか、オハ35やスハ32のあのタイプの台車は苦手でその点スハ43系のTR47タイプのウィングバネが好きでした。スハネ16の寝台は程よい上下揺れがありよかったです。豪華バスよりも寝台車の方が上と言うのは全く同感です。
    もう一つ、私が札幌に赴任中に道東から来られたkawanakaさんをお連れしたのは小樽市の張碓海岸であったと思います。札幌近郊で手軽に行けたのですが電化前でもこの区間は複線なのでC57、C62、D51がバンバン撮れた思い出の場所です。
    小林さんが京都市内の市電と京阪の平面交差で走行する京阪1900の窓下にのせた万年筆のキャップが揺れにも倒れなかったという現実をよく覚えております。頑張ってください。

  2. 準特急さま
    小生の偏見かもしれませんが、TR23は軸箱の上にしかコイルバネがなく、少々固めの揺れだったように思います。スハ43系のTR40・47は軸箱周りにコイルバネが使われており、いくらか柔らかい揺れだったですね。またオハ61系以前のつり合い梁式TR11は古い形ながら、国鉄時代の良好な線路状態もあってフワフワと柔らかいものだったと記憶します。機械的な知識はありませんが、板バネとコイルバネの差ではなかったかと思っています。
    ところで京阪1900の(素人)乗り心地調査を覚えておいて頂き光栄です。走行時の振動では全くと言っていいほど倒れず、ブレーキ時に簡単に倒れたのは予想外で驚いた記憶があります。まあしかし今思うとよくあんなアホらしい事を考えたものだ冷や汗ものです。

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