【84385】写真展を楽しませていただきました。

第7回写真展が本日幕を閉じました。期間中何度か受付をさせて頂きましたが、いろんな方が来られて、話も弾み、楽しませていただきました。その中での話題です。

6日に来られた方、名刺と共に一枚の写真を取り出されました。昭和38年学鉄連でカメラバスツアーが行われた時の記念写真でした。学鉄連は昭和38年4月に発足したそうで、この年の10月この年の当番校となった甲南大学が計画したツアーです。持参されたメモ書きには25名が参加、その中に同志社の方も3人おられたのだが、どなたかご存知の方はおられるでしょうかとのことでした。何せ50年以上前のこと、とりあえず写真をいただいて、聞いてみますと言ったものの全くあてはありませんでした。しばらくしてこられた大阪通信員様にこんな写真がありますが、とお見せしたところ一目見てこの右端は僕やとのこと、他の二人の方もお名前が判明し、50年以上の時空を隔てて時間がつながりました。↑ 大阪通信員様の了解を得て掲載させていただきました。

今日の最終日に来られた方、しばらくしゃべった後、カバンから本とアルバムを取り出されました。本は、交通公社昭和52年発行の時刻表復刻版、当時5000円もしたものです。アルバムはN電、蒸機の写真が満載、断捨離したいのでどなたかもらっていただきたいとのことでした。いずれも貴重なものでありがたくいただきましたが、ちょっと複雑な気持ちでした。

この他、乙訓のご老人が常々「僕の師匠や」と話されていたKさんがこられました。80代半ばと言われていましたが、お元気で、伝説の方かと思っていた方からありがたく名刺をいただきました。みなさんご熱心でゆっくり写真を見られ、長い方は3,4時間も滞在して話し込んでいかれました。私の参加した中ではいろんな意味で一番面白かった写真展ではなかったでしょうか。写真集めからプリント、額装などの事前準備、また連日会場に詰められた総本家青信号特派員様ありがとうございました。

写真展を楽しませていただきました。” への6件のコメント

  1. 大津の86様

    『6日に来られた方』は小生の知人で、高校時代以降かれこれ60年近くになろうと言う鉄道趣味の友人であるY氏です。(高校は、それぞれ別でした。)
    今回の写真展も小生が案内しておいたところ、訪問されたようです。

    ところで、不思議な事に未だに2人は会った事が無く、当初は文通で、ここ20年近くはPCメールでの付き合いが続いております。
    『なれそめ』は共通の知人である元明石電車区の運転士さんの紹介でした。
    小生がこの元運転士さんと知り合ったのは、高槻駅で快速を待機中の各停を撮影中に各停の運転席から声をかけていただいた事でした。

    因みに、小生はここ10年間、毎年春(観桜)と夏(祇園祭or送り火)のどちらか1回or両方で2回京都を訪れており、昨年にはY氏とお互い初めて会う予定をしたのですが、こちらの事情で取り止めとなりました。
    以上、貴殿のコメントに事寄せて、或る意味『人生の不思議な話』をご披露させていただきました事をお許し下さい。

    • 河昭一郎様
      コメントいただきありがとうございました。また、私どもの写真展に貴重な写真を出展いただきありがとうございました。Y氏は受付に来られるとまず「河様の写真はどこに展示されていますか。」とお聞きになられました。写真を見ながらお話ししている中で、河様とのお付き合いについてもお聞きしましたが、長いお付き合いの中でお二人はまだお会いになったことがなかったという事に驚きました。
      写真展はこれからも続けたいと思っておりますので、次回はぜひY様とお揃いでお越しください。また、「デジ青」でつながっている当会会員とも会っていただける機会になればと存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

  2. 大津の86様
    写真展ではお世話になりました。上掲の写真、一番右は大阪通信員さん、その右のメガネは名古屋の和尚さん、さらに右はローズ・山下さんらしきですね。

    学鉄連は1962(昭和37)年8月名古屋で開催された、関西と関東の鉄道研究会・同好会の合同懇談会で設立の機運が高まりました。この時我がDRFCの出席メンバーは地元名古屋の和尚さん、今大津にお住まいで『大津の暇人』を名乗るお方と筆者の三人。対する関東組みは4、5人いたと思いますが、何しろ話題豊富で饒舌な和尚さんと暇人ですから、関東組みを完全に押さえつけて、DRFCの独演会でした。関東組みは圧倒されてしまい、極めて静かに聞き込んでいました。そんなことを思い出します。

    それでも関東組みの取り計らいで、大阪弁天町の館長を紹介され、学鉄連の関西連絡所を交通科学館に設け、学鉄連の発足と関西支部がスタートしたのが、あくる年1963年4月でした。その頃筆者のゼミ、高分子化学教室がスタートしましたので、学鉄連関係及びDRFCの事は上記の方々にお願いし、研究室に閉じこもりとなりました。なにしろこのゼミ、同志社工業化学内でも有名な拘束時間の長さ。教授は京大と掛け持ちの有名教授。お陰で筆者の4年生はDRFCにほとんど出られずじまい。そんなこんなが学鉄連誕生の1962、1963年でした。

    • tsurukame様
      そうでしたか。学鉄連設立にかかわっておられたのでしたか。学鉄連は我々の時代でも活動があって交通科学館に行ったこともありましたが、現在は学鉄連には所属していません。先日会った現役生に聞いたところ、学鉄連からは入会しないかとのオファーがあるそうですが、DRFCは同好会でいわゆる研究会ではないのでことわっているとのことでした。他からオファーがあるという事はDRFCの力を知っていて、入会してもらいたいと思っているからでしょうし、それに対して、ちゃんとした信念をもって対応してくれている現役生を頼もしく思います。
      少し話がずれましたが、今回の写真展は私にとって意義深いものでした。

  3. 大阪通信員サマはこの時なら体重50kg位じゃなかったですか。OBになってからでもそんなもんで、確か寝ていて布団があんまり膨らんでいなかったので、中に彼が埋もれているのに気づかず、上から踏みつけた奴がいた、という伝説がありますな。その後オカネが溜まったとみえ、すっかり恰幅が宜しくなられましたな。尤も小生も長らく52kgでしたが、何時の間にやら70ンkgで、当方はさっぱりオカネと縁はおまへんが。

    • 思い出しました!
      レイアウトなどを地面において作業している大阪特派員様は米つきバッタがジャンプする直前の様子に似ていて、バッタ座りとかZパンタ体型とかとか言われてお出ででした。

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