地図を携えて線路端を歩いた日々 -6-

“昼寝”している寝台車を活用した全車指定の海水浴列車、臨時急行「はしだてビーチ」。冷房付き客車はグリーン車、寝台車、食堂車に限られ、座席車では皆無だった時代、いちばん暑い時期に冷房付きの列車に乗れるのは画期的で、乗車率も高かった。舞鶴線内は福知山区のC57が牽いた(昭和44年8月)。

A地点 〈真倉付近〉
写真展も終わって二週間余り、まだ高揚感が覚めやらぬところですが、少し間の開いたデジ青投稿に集中することにします。「地図と撮影地」シリーズの第二回目は、京都からは日帰り圏内の舞鶴線真倉~西舞鶴~東舞鶴としました。高校生の時から機関区訪問で西舞鶴などに下車することはあっても、駅間の走行中を撮影に行ったのは、昭和44年の大学2年の時でした。添付の地図は、その後に購入の多色刷りですが、当時買った地図は、まだ右書きの一色刷りの旧版地図で、未知への土地へのイメージを大きく膨らませたものです。

周囲には民家が全く見られない真倉で下車、当時は西側を走っていた国道27号沿いに南下して踏切を渡り、線路東側へ行くと、緩くカーブした築堤がある。ここで京都9時25分発の天橋立行き「はしだてビーチ」を待ち構えた。
「はしだてビーチ」は、新大阪~広島の寝台列車「音戸」の昼間の間合いを利用したもので、向日町運転所で5~11号車のハネ7両編成の寝台を畳んで座席に転換し、冷房付きの座席指定の臨時急行としたもの。昭和42年7月21日に運転開始した。京都9時25分発、天橋立12時35分着、折り返し13時05分発、京都16時42分着で、直ちに向日町に送られて、寝台をセット、新大阪発の「音戸」として使用される。牽引は京都~綾部が福知山区のC57、綾部で向きが変わり、別の福知山区のC57が付き、そして西舞鶴から宮津線内は西舞鶴区の9600の牽引となる。とくに“キューロク”牽く急行列車は、当時でも無かったことで、DRFCの仲間とは、宮津線へも撮影に行ったものだった。
ところで寝台車の間合い利用の臨時列車の例は、「はしだてビーチ」だけと思っていたら、東北本線でも例があったことが分かった。それは昭和43年から上野~黒磯に夏季のみ運転の「くろいそ」で、これは急行「新星」の寝台編成の間合い利用だったそうな。 本日の牽引は集煙装置、重油タンク付きC5787で、次位のオハネフ12の窓は締め切られ、炎天下で待つ身には、なんとも冷房付きが羨ましかった。
舞鶴線では旅客列車は通常C58のみだが、敦賀第一、西舞鶴、福知山と3区のC58が牽くのが特徴だった(昭和46年7月)
舞鶴線の旅客は、客車、気動車が約半々だった。線路の東側には小高い山があり真夏には貴重な日陰に入って、列車の通過を待った。現在では、この付近を拡幅された国道27号が走り、沿線の風景も変わっている(昭和44年8月)。
いっぽう貨物牽引もD51と、至って当たり前の陣容だが、後藤デフの変型機D51499もよく見られた(昭和44年8月)。
「はしだてビーチ」は昭和45年になると、万博輸送で大量投入された12系客車に変更され、牽引機もDE10に代わり、どこにで見られる列車になった。蒸機の牽く寝台車列車は3年間の夏だけだった。「はしだてビーチ」は、昭和45年から大阪発播但線経由天橋立行き「はしだてビーチ2号」も運転され、京都発は「はしだてビーチ1号」となった。京都~綾部でも、昭和44年からDD54に置き換えられたが、C57が代走することもあった(昭和45年8月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -6-」への6件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    炎天下で煙が期待できないとは言えC57やキューロクの急行列車は撮ってみたかったですね。ところで「音戸」の間合い利用であるため往復この列車を利用する日帰り海水浴は無理ですね。一方を早朝の列車か、夕刻の列車を利用するかまたは日帰りを諦めて現地に1泊することが前提ですね。関東でも埼玉県のどこからか鯨波に向けての臨時海水浴電車があったと思いますが、これはギリギリ日帰りが可能であった様な気がします。いずれにしても最近は時刻表をじっくり読んでいないのでいい加減なコメントで申し訳ありません。

  2. 準特急さま
    速攻のコメント、ありがとうございます。寝台車のヒルネ活用は、車両を増備することなく、一往復の列車が設定できるのですから、輸送が逼迫していた当時は、一石二鳥の有効な活用方法だったと思います。ただ、前後には、寝台編成のみの抜き出し、寝台のセット、リネン類の取り替えと、限られた時間に作業が集中し、たいへんだったと思います。京都発時刻も9時25分ですから、海水浴列車としてはもう少し早い時間帯に設定したいでしょうが、難しかったのでしょう。天橋立の折り返しも30分しかなく、往復利用は無理で、最初から片道乗車、または一泊を前提とした設定のようでした。

  3. この記事を見て、半世紀前を思い出したので、記憶が埋没しないうちに吐き出しておく。昭和44年のくそ暑いときにDRFCの加悦鉄道の合宿があって、そのあとに同年のO氏、若い某氏と9600のはしだてビーチを撮った。ネガもどこに行ったかわからないが、特派員氏のように戦闘的ではなく、暑いのでビーチで泳ごうとテントを張って一晩過ごし、そろそろ来るでーの掛け声とともにパンツ1丁で線路脇に出て撮ったことを思い出した。あくる日?折角やから乗ろうとなったが、寝台は当然3人掛けかと思っていたら、4人座らされ、暑くはなかったけど(否、涼しくはなかった。乗客は「暑いなあ。そやけど外はもっと暑いから効いてるのやろうね。」と言うていたのを思い出した)窮屈で快適とはいえなかった。
    このあと、西村氏と呉に出かけたが、とにかくこの年はばてるほど暑かった。特派員さん、ご苦労様でした。

  4. 聡本家青信号特派員様

    ハネ車の間合運用は妙案ですね。
    ただし、ネ運用への転換に要する時間と職員への負担などを考えると、今では想像も出来ない事ですね。

    何しろ近年ではスカ線などの基本+付属の途中駅での分割併合ですら省略し、運行経費の無駄より労働の軽減化を重視して長編成のまま空気のみを乗せて閑散線区に突き進む今日この頃ですから。

    車両がそんなに逼迫していたのか、又は冷房付き海水浴列車としての話題作りだったのか、それにしてはKAWANAKAさんの記述にある4人掛けとは宣伝上の整合性が取れず・・・。

    • 河さま
      いつも暖かいコメントを頂戴し、ありがとうございます。
      当時は夏になると“水のきれいな日本海へ”のコピーがあふれていた時代で、日本海への海水浴は、関西人の夏の定番行事化していましたから、冷房付きの列車で、ゆっくり座って行けるのは、大きな魅力で、すごい人気だったことを覚えています。
      たしかに短時間で、ハネを解結・転換・整備するのは、大変な労力を要したと思います。3人掛けの寝台車座席を4人掛けに詰め込んだのは、座席の寸法的には可能だと思いますが、指定席番号の表示をどのようにしていたのか、興味深いところです。雑誌のバックナンバーを見ますと「はしだてビーチ」の乗車記があり、たしかに4人掛けとありました。また120人分の立席券も用意されていたと書かれていて、その人気ぶりが伺えます。上段は畳まずに寝台のまま走ったと言うことで、上段には上らないように、何度もアナウンスで注意があったそうです。

  5. kawanakaさま
    半世紀前の思い出、ありがとうございます。昭和44年の加悦合宿、私も行きましたよ。とにかく暑いさなか、脱落するメンバーも多かったのですが、加悦駅の宿直室で泊めてもらった翌日は、宮津線の由良川鉄橋で「はしだてビーチ」などを撮ったことを覚えています。その時のメンバーに、kawanakaさんがおられたこと、正直、覚えていませんでした。帰りは「はしだてビーチ」に乗られたとのこと、4人掛けとは、すごい詰め込みようですね。私は冷房無しの普通列車で帰りました。列車にも宿泊先にも冷房の無い時代、今よりもっと暑かった気がします。

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