東海道・山陽緩行電車の形式写真

 

遅くなりました。もうお忘れになっておられることと思いますが河 昭一郎様からの宿題が終わりましたのでご報告致しまします。京都-西明石間の緩行電車は神足(現長岡京)に下宿していた頃よく利用した電車でその頃に京都駅で撮った1両毎の形式写真です。勿論形式写真と言っても西尾克三郎さんの組み立て暗箱で撮ったような本格的なものではなく、何かのついでに撮ったものです。言い訳ばかりになりますがクモハ51、クハ68、モハ70等が全くなく私の国電への興味もこんなものであったようでご勘弁願いたいと思います。

1968.5.19 クモハ54107 100番台はオリジナルではなく改造車と聞いたことがある▼

 

1968.5.19 クモハ54111 ▼

 

1966.11.15 クハ55112 大タツ 中間に入ったクハを撮るのはあまり感心しませんが窓配置が気になって撮ったものと思います。▼

 

1966.11.15 モハ72084 大タツ ▼

 

1968.4.20 モハ72650 大アカ ▼

 

1968.4.20 モハ72024 大アカ ▼

 

お申し越しの車両ではありませんが、修学旅行電車を撮った時に来た急行「加賀」の車両です。

1968.5.19 モハ474-18 金サワ▼

 

1968.5.19 サハシ451-9 金サワ▼

 

1968.5.19 サロ451-9 金サワ▼東の京浜・東北と西の東海道・山陽緩行線は同じような位置づけで見ておりましたが、これらの撮影時期は前者は73形4扉車であるのに対し、後者は73形に混じって3扉車のくせ者(いい意味です)がいて大変楽しかった思い出があります。その割にはあまり撮っておらず河様に申し訳なく思っております。

東海道・山陽緩行電車の形式写真」への9件のフィードバック

  1. 準特急様

    うわ~っ。首を長~くして(笑)お待ちしておりました。
    懐かしい京都駅でのショットに、我を忘れて見入りました。

    クモハ54の100番代車は仰せの通りオリジナル車ではなく、クモハ60をセミクロス化したものですね。そして、実は0番代のオリジナル車の数(8両)より多かった(21両)のがエピソードとして語られてますね。

    クハ55もオリジナル車の他にクロハ59からの改造合流車が居り、この112もその由来で窓配置が不揃いなのは元のロ室の名残りです。
    この手合いはクハ68にも有って、クロハ59⇒クハ68⇒クハ55⇒クハ68など結構複雑な改造車歴を持った車が居ました。

    モハ72は正しく種々雑多でした。写真の024及び084はモハ63をルーツとした後年の車体更新車、650は500番代の新造車ですね。
    なお、モハ63⇒モハ72&クモハ73の近代化車体更新工事には関東方式と関西方式があって外観に違いがあり、更には担当工場によって微妙な違いがあったようですが、詳細については不勉強です。

    ところで、72024の撮影場所は京都駅ではないように思いますが、何処でしょうか?

    続く写真の471系も懐かしいですね。
    『西』仕様車を表す車体裾に引かれた細線が又また懐かしい。

    ここで、ちょっとした疑問ですが、小生の記憶では交直流車が現れた当初は『西』と『東』の仕様を識別する意味で『西』のM車のみに裾線を引き、T車は東西共通形式車で運用したので裾線は無かった気がします。
    しかし、この写真ではサロ、サハシ共に裾線が入っていて小生にとっては『?』なんですが、どなたかこの件ご教示下さい。

    • 西、東じゃなくて60サイクル、50サイクルの区分でM系に入って、T系には無かったと記憶します。サイクルは故意に書いています、この表示の頃はサイクルでしたから。

      • ゲタ電大好き(吊り掛け)様

        忘れた頃のコメントに一瞬『?』でしたが、小生の記述に対するご指摘と判り、感謝致しております。

        仰せの通り正式には『西、東』との表現は有りませんでしたね。
        ただ、当時は電気方式が大井川を境に西と東で60サイクルと50サイクルに別れていたと思うので、勝手に60サイクルを『西』、50サイクルを『東』とチョット気取って言ってしまった次第です。

        同人同士の投稿では、ともすれば略号や業界用語、隠語、造語を頻繁に使う例もあるのでオッチョコチョイの小生の事、時には脱線して『フザケ』に近くなってしまい、皆様に不快感を持たせてしまう事が有り、大いに反省しております。

        ところで、貴殿の『M系、T系』と言う表現は若輩の小生にとっては初耳でした。

  2. 河 昭一郎様
    コメント有難うございます。モハ72024を撮影した場所ですがメモには1968.4.20京都駅モハ72650大アカ、クハ79324大アカ、モハ72024大アカ、クモハ73359と記入されており、このうちクハ79324とクモハ73359は車体に電柱等の影があり今回の投稿には割愛しましたがネガを見ますとこれら73系車両は連続して撮影しているようです。ただ、モハ72024とクモハ73359はあるいは場所を変えたり後日どこかで撮ったのかもしれません。かなり昔のことですので記憶が薄れていると思いますが、モハ72024の写真には後方に山並みが見られます。他に場所を特定するものが写っておりませんのでこの山並みから判断させていただくとこれは東山連峰ではないかと思います。また、大タツ(高槻電車区)、大アカ(明石電車区)を訪問したことはなく、京都駅以外で73系の形式的写真を撮った記憶はありません。従いましてモハ72024は京都駅で撮影したものではないかと思います。次に交直両用急行の471系ですが、河様おっしゃられるように1966年5月1日に北陸線余呉で撮影した471系急行列車はモハは裾線がありますが、クハ、サロにはありません。その後の経緯は私もよくわかりません。

  3. 471,473,475系は60Hz用としてクモハ、モハの裾にクリーム4号の帯が入っていました。クハ、サハシ、サロは451、455系と共通形式となっていましたので当初裾帯は有りませんでした。
    しかし編成といて見た場合帯がつながらず綺麗ではありませんので昭和43年10月改正前後に順次裾帯が追加されていったと記憶しています。(ほかに理由が有ったのかもしれませんが)
    準特急様の43年5月19日の京都駅の写真は裾帯追加の過渡期で帯あり帯なしが混ざっており、41年5月1日には帯がないのはそのためと思われます。
    その後457系が50Hz、60Hz共通仕様で製作され帯のないクモハ、モハが60Hz区間にも配属されたのを機に順次裾帯が消されていったようです。(昭和45年6~7月 鹿児島、昭和46年3~4月 金沢配属)
    したがって編成全車に裾帯の有る写真は貴重と思われます。

  4. inubuse様
    裾帯について過去の経緯を説明いただき有難うございます。今まで撮ったこと、と言ってもそれほどある訳ではありませんが、全車裾帯編成の写真を探してみたいと思います。また、当初デビューした頃に東の50サイクル交直流401系、451系と西の60サイクル421系、471系がデビューしたことは覚えておりますが、その後、455系、457系、473系、475系といろいろ出てきて混同しよくわからなくなったのが現状です。米手作市さんの質問された581系、583系と同様です。特急用の485系も481系と言っていたような気がしますが定かでありません。我々高齢者はJR化後の形式はよく覚えられないとぼやいていますが国鉄末期頃から既に覚えられない、覚える気がない兆候が表れていたようです。

  5. INUBUSE様

    そうでした、そうでした。 スッカリ忘れていた事を復習させていただきました。
    とは言え『そう言えばそうだったなあ~』と当時、勉強不足だった事がアリアリでした。

    それは準特急さんが仰るのと似た現象で、小生の場合はJR化前後から『覚えようとしなくなった』事もあるようです。

    交直流電車が出始めた頃の401・421系、451・471系までは知って居ても、それ以降については所謂うろ覚え状態で、そう言えば50・60サイクル両用車も居たなあ~ってな状態です。

    ところで、裾線について詳細な経緯をご教示いただき、有難うございました。おかげで謎が解けました。

    今回の件で、小生はやっぱり国電ファンでしか無かった事を思い知らされました。

  6. 今日、都内で鉄道趣味人の会に参加してきました。この世界での錚々たるメンバーを中心に140名くらい集まりました。その中である趣味誌の編集長は昔の昭和の時代のファンは模型をやったり写真をやったり幅広く活動していたが今の人は狭いというかあるジャンルに偏り過ぎているようなことを言われていました。例えば模型でNゲージをやっている人はNゲージのことしか話さないというようなことです。あくまで趣味ですから狭くても広くても自分が楽しければそれはそれでいいとは思いますが、これも例えばの話ですがもうかなり前ですが信越線でEF551が引退する時そのイベント列車が通り過ぎるとほとんどのファンは帰っていきました。今、話題となっている107系や115系がイベント列車の前後にきちんと撮れるにもかかわらずです。私はせっかく群馬まで来たのだから帰りに上信電鉄にも行きましたが、いました、熱心なベテランファンが。要するに言いたいことは無くなる頃に罵声が飛ぶような場所で撮影するなら早い目にあるいは普段着のそれらの姿を撮ればいいのにということです。本にのっけたりするならよく調べてうそのないようにやらないといけないですが、趣味であるのなら興味の無いことは無理に覚えることもないと思いますしまたなかなか覚えられないと思います。今の歌は覚えられないのと同じです。(たわごと失礼しました。)

    • 準特急様
      まさにおっしゃる通りです。さよなら列車にホームにあふれんばかりの人が集まる光景は異様に感じてしまいます。話は変わりますが、DRFCの室町ボックスは模型を作らない人も模型班のレイアウト工事の枕木作りを手伝ったりと 「鉄道」が共通点という雰囲気があって、居心地の良い空間であったことを思い出します。あくまで個人的な趣味の世界ですから広く浅くでも 狭く深くでもいいのですが、そういう意味では広く深くの人が多かったことも魅力的な場を作っていた要素だったように今になって思います。

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