地図を携えて線路端を歩いた日々 -8-

西舞鶴~東舞鶴での初撮影は、お召列車だった。東舞鶴で牽引機が交代したお召は、C58223〔豊〕+C5856〔西〕の重連で白鳥峠を越える。この日、お召は、若狭高浜から豊岡まで運転された。以前の本欄ではカラーを載せたので、今回は手持ちで連写したモノクロを(昭和43年10月)。

C地点〈西舞鶴~東舞鶴〉

舞鶴の市街地は、城下町・商港として発展した西舞鶴と、軍港として栄えた東舞鶴に分かれ、かつては舞鶴市、東舞鶴市と、別の市でした。二つの市街地を分けるところにあるのが白鳥峠で、距離は短いながらも、両方向から25‰勾配が続き、前補機、後補機など、蒸機の活躍が見られました。
以前のデジ青でも記しましたが、昭和43年10月の福井国体でお召列車が運転され、あわせて兵庫・京都北部の行幸もあって、同区間で運転されたものです。運転された当日は、同学年のM君ともに東舞鶴へ行き、駅構内で待機中のお召機を写した後、国道沿いを峠へ向かいました。予備知識もなく、適当に歩き出したのですが、やがて、国道と線路が平行し、築堤となった線路を見下ろす場所に行きつくことができました。


西舞鶴を出て、白鳥峠に向かう貨物列車を第6伊佐津川鉄橋でとらえる。牽引はまたしてもD51499〔福〕だった。よほど好調なカマのようで、このあとは亀山区に転属し、加太越えでまたも再会することになる(昭和46年7月)。
福知山発中舞鶴行き227D、キハ17の2連、東舞鶴から分岐する中舞鶴までの路線が健在だった時代(昭和46年7月)。
C1251〔西〕+C58の1937列車 西舞鶴区のC12は入換えだけでなく、前補機としても使われた。東舞鶴から小浜線方、松尾寺まで25‰勾配が続くため、通常は西舞鶴~東舞鶴~松尾寺の運転だった(昭和46年7月)。
補助灯を付けたC58212が牽く臨時の9940列車、同機は高崎第一機関区から転属した。その時代に補助灯が付けられたようだが、デフのすぐ横に取り付けられ、通常の取り付け位置とは異なる(昭和46年7月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -8-」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    昭和43年10月ならまだ京都にいたのでお召しなら何で誘ってくれなかったかと今にして思いますが、あの頃は電車にうるさい連中も沢山いて近鉄や南海などにも出かけていたからこんなことになったのかもしれません。私の撮ったお召は日豊線のC57117とC11重連くらいです。それにしても関西圏では加太、河内堅上、保津峡、馬堀、武田尾、生野峠と好撮影地が多い中で意外に舞鶴でこんな写真が撮れたのですね。丹後半島の写真はよく見ましたが、ここは案外注目度が低かったのかもしれません。何も邪魔するものがない単線勾配区間の重連はいいですね。

  2. 準特急さま
    コメント、ありがとうございます。お召が運転された昭和43年10月5日は、今でも覚えていますが、水曜日でした。水曜日の2講時のチャペルアワーにDRFCの例会が行われており、あとで“あいつら二人は例会を欠席してお召を撮りに行った”と言われたものでした。今では笑い話で済ませられますが、当時はクラブの掟を破ったようで、気まずい思いをしたことを覚えています。たしかに、BOXでは電車ファンが主流で、蒸機派は少なかったように思います。京都府北部、というと、いきなり宮津線に飛びますが、その手前の舞鶴付近も、今から見れば良い撮影地があったものです。

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