夏の思い出 2017-1 祇園祭と京都市電

すっかり「デジ青」からご無沙汰の毎日ですが、外部の愛読者からは「最近、投稿が無いのは、身体でも悪いのか」と心配の連絡がありました。いえいえ元気にしていますよ、ご安心ください。“生きている証し”のためにも、せっせと投稿を続けます。
さて京都は祇園祭の時期を迎えました。DRFC時代なら、前期の試験も終わって“さぁ夏休み”の期間で、京都の学窓を巣立った人間にとっては、祇園祭は何とも言えない解放感・期待感が入り混じった、特別な祭りだったと思います。そんな祇園祭も、齢を重ねると、すっかり観光化した祭りに反発もあって関心が薄れ、この10年以上は行ったことがありませんでした。ちょうど埼玉県から京都へ戻った会員のSさんも、自身のブログで30数年ぶりに祇園祭へ行ったと述懐されています。
今年は、宵山の昨16日、趣味会合の帰りにホント久しぶりに、山鉾の立ち並ぶ烏丸通、四条通を歩き、しばし宵山の雰囲気に浸ることができました。若い世代が圧倒的に増えたこと、そして露店の数の多さにはびっくりしました。


四条河原町で辻回しにかかる長刀鉾、巡行当日の7月17日、市電は四条線が祇園~四条大宮、河原町線は四条河原町新京極~河原町二条が運転休止、京都駅方面から来た河原町線の臨時系統の市電もここで折り返す。

祇園祭を思い出すとき、やはり京都市電に行き着く。その取り合わせは、京都らしい絶好の写材となったし、市電より何倍も背の高い鉾を通すため工夫や処置に、“さすが京都”と目を見張ったものだ。

その代表例が、巡行路に当たる、四条通、河原町通を、片持ち式の架線柱に改造したこと、鉾は架線柱のない空間を何の障害もなく巡行できるようになった。これは、巡行路が、松原通・寺町通から四条通・河原町通に変更された昭和30年代半ばからのことだ。四条通は北側、河原町通は西側が架線柱の無い区間で、四条河原町名物の辻回しは、今でこそ交差点の中央で見世物よろしく回しているが、当時は今よりも最小半径で回していたことになる。四条烏丸東入る、長刀鉾の横を行く京都市電、架線柱は片持ち式のため、鉾は架線を気にすることなく巡行できる。背後のビル群も、すべて建て替えられた。
四条烏丸西の様子、中:函谷鉾、左:月鉾、この時代でも、ただでさえ混雑する四条通に数基の鉾が数日前から連立するので、大渋滞を催していた。

そしてもうひとつ名物が。巡行では、四条通、河原町通は難なく通れても、四条烏丸、烏丸御池の交差点で、鉾は市電烏丸線を横断せざるを得ず、窮余の一策として、巡行日には、烏丸線の架線を数十mにわたり切断する荒業を行なっていた。手前で加速を付けた電車は、惰力で切断区間を渡って行く。ビューゲル・Zパンタは、乗り込んだ係員が紐で支えていた。ところが混雑する交差点のこと、急な横断があって制動が掛かったり、惰力が足りず、切断区間で停車してしまうことが結構あったそうだ。
そんな時に備えて、付近で待機していた関係者が市電を取り囲み、一斉に押し出すのだ。沖中忠順著「京都市電が走った街今昔」のコラムで、私は“鉾の代わりに、市電をエンヤラヤー”と書いたが、私はそのシーンは実際に見たことがなかく、趣味誌に小さく載った写真で知るのみだった。ところが、昨日の趣味団体の会合で、四条烏丸で写された、まさに“市電をエンヤラヤー”の写真を、ある方から見せてもらった。市電の周りをまるで蟻がたかるように数十人が市電を押している。服装を見ると警察官が多かったようで、すぐ近くに設けらていた京都府警のテント村も写っており、有事に備えて待機していたようだ。

運転休止を知らせる停留場の看板。宵山は当時は16日だけだったので、運転休止は2日間のみ、その上に「乗客の皆さんへ」と書いた組合の告知が貼ってある。拡大してみると、15日の早朝に行われた時限ストに対する理解・協力の内容だった。宵山の前日にも、ストライキをするとは、これも昭和の時代らしい。
あと、四条通室町西入るの南側が鉾町となる月鉾や、四条通以南にある数基の山鉾は、巡行集合地の四条烏丸西入北側へ集結する必要があるが、その場合、四条通を横断する必要があり、四条線の架線に引っ掛かることになる。四条通は、巡行だけの烏丸以東は前述の片持ち式、通りの両側に鉾が並ぶ烏丸以西はセンターポール式だった。
趣味団体での会合でも、このことが疑問として議論されていた。そこへ明確な回答を寄せて下ったのが、すぐ近くにお住まいのTさんだった。四条新町の交差点に、もう一ヵ所、架線の切断区間を設けたとのことだった。これで四条通以南の山鉾も、これで四条通北側へ移動することができたのだ。四条烏丸、烏丸御池以外に、もう一ヵ所あったのである。
数時間の祭りの巡行のために、市電も共存しなら、祭りを続けて来たこと、いかにも京都らしいことだった。

四条室町西、月鉾の前を行く。このように四条線の烏丸以西は、センターポール式だった。少し西の四条新町で架線を切断し、山鉾は四条通を南北に横断していた。

 夏の思い出 2017-1 祇園祭と京都市電」への9件のフィードバック

  1. 聡本家青信号特派員様

    祇園祭に纏わる市電の話、興味深く読ませていただきました。
    架線切断については大変深~い話があったのを再認識しました。
    昔の或る年、烏丸御池で目撃⇒同行の母を放ったらかしてシャッターを切るのに夢中になった事を思い出させてくれました。

    架線切断の話は、或る意味有名な話ですが、小生如きが垣間見た話とは違って四条通の新町にも切断ヶ所があったとのディープな情報に大いに感心しました。
    同時に、その事に気付かずP誌の記事に書いて得意がっていた自分に『上っ面さ』を自覚した次第。

    • 河さま
      いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。私ももう一ヵ所、架線の切断区間があったとは、人から聞くまで知りませんでした。河さまの京都市電ビク記事も愛読しています。私も目から鱗の内容でした。今回の一件も先達の何気ない話で分かったことで、対話の大事さを痛感しました。

  2. 流石に総本家氏だけのことはあり、興味あふれる記事に感心したわけですが。架線切断は工事も運用も結構大変だったのですね。暑いのが大嫌いな小生もこの時期の市電を撮ろうとして架線なし区間の走行を撮っていましたが、たしか烏丸御池?と記憶します。その交差点で、加速を付けた電車は、惰力で切断区間を渡る際にZパンタを下ろすのを忘れた電車が突っ込んできました。あーっと思ったのと同時に、火花を散らして架線を絡ませ、そのままエマが掛かり停止してしまいました。大勢の観客は悲鳴とともに散らばりましたが、瞬間を撮っております、・・・と言いたいのですが、ネガが例によって行方不明。写真は見れないのですが、大変だったのですね。祭りの実行と運行の確保の苦労が偲ばれるというものです。こんなことがあったなあと思い出しました。昭和42年の夏のことです。

    • KAWANAKAさま
      コメント、ありがとうございます。昭和42年に、もう市電を撮っておられたのですか。私はまだ高校3年生で、市電には全く興味のない時代でした。烏丸御池のスクープを撮っておられるとは凄いですね。見せてもらえないのが、つくづく残念です。

  3. 架線の切断と復旧については、もう見られません。
    しかし交通信号機の退避/復旧については現在も行われています。
    たまたま先日、その様子を記録できましたので、報告します。

  4. 鉄鈍爺さま
    鉾巡行の支障となる市電は無くなりましたが、交通信号がありました。アームを90度曲げて開閉する様子が動画でよく理解できました。通行止めを解除するにも、まず信号の復旧が第一なのですね。ご報告、ありがとうございました。
    ところで、昨日、後祭りで賑わう烏丸通りを南下していますと、六角通の角で、鉄鈍爺さんのお姿を見かけましたよ。町内の方と忙しそうにされていたので、声も掛けずに失礼しましたが、山鉾町として、伝統ある行事を守り伝えておられる頑張りに敬服いたします。

  5. 今日は青空が広がり、猛暑の中祇園祭山鉾巡行が行われました。私は冷房の効いた自宅で、テレビ中継で見ていました。
    先ほどデジ青を開くと「最近の人気記事」に祇園祭りの投稿を見つけ、市電の架線を切断して鉾を通した云々に反応しました。珍しくはありませんが、ちょうど50年前の昭和48年7月17日、烏丸御池で烏丸線の架線を切断する作業を写していましたので添付します。「市電をエンヤラヤー」のシーンも見たのですが、こちらは写していませんでした。

    • 紫の1863様
      珍しいシーン、ありがとうございます。先週の趣味団体の会合でも、巡行当日の架線修理車の動きについて、議論がありました。まず朝、四条烏丸で架線を外す(“切断”ではないと言う注記も入りました)作業を行い、すべて山鉾が通り終えると、架線の復帰作業を行ったあと、すぐさま烏丸御池に行き、同様の作業を行った訳でした。おそらく先頭の長刀鉾は、目前まで迫っていたことと思われ、時間との勝負でした。

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