夏の思い出 2017-4  ある駅を訪ねる

8月もあと1日で終わります。私も、夏の思い出づくりに、ささやかな旅をして来ました。
以前、デジ青で海水浴の話題がありました。米手さんのコメント「満員の列車に揺られて、若狭・丹後へ海水浴に行ったもんや」で、思い出したことがありました。小学生の3、4年、昭和33、34年です。家族で海水浴へ行きました。米手さんのように乗った列車は超満員でした。小学校高学年になると臨海学校が開かれますが、その学年に達する前の齢で、初めての泊りがけの海水浴でした。泳ぎ疲れた夕方、民宿の開け放した窓の向こうを、DC列車が紫煙を上げて通り過ぎるのを、ぼんやり見ていました。
米手さんのコメントで、なぜか“その場所へ行ってみたい”と言う思いに駆られました。 そう思う理由は、もうひとつありました。その近くに、鉱山へ向かう専用線があって今も廃線跡が残っていると聞きます。二つの理由から、ある日、ある駅に降り立ちました。

          ▲ある駅に近づいて来た。


“ある駅”、とは小浜線の若狭和田。18きっぷの消化も兼ねて、敦賀経由で3時間余り、小浜線の125系電車の乗車も久しぶりだった。
若狭和田駅ホームから西を見る。その廃線跡は右へカーブしながら、ちょうど向こうの若狭富士(青葉山)方面に向かい、下段に掲載した小川を渡って行った。いま若狭和田は棒線駅となっているが、かつては左手に留置線もあり、さらに左手奥方向にある海軍火薬庫へ1.0kmの専用線も伸びていた。
若狭和田駅は、大正14年の小浜線の開業と同時に設置された。当時は、海水浴用の仮駅だったようで、昭和9年、駅に昇格、同時に貨物扱いも開始した。昭和48年に無人駅となったが、のちに簡易委託駅となり、端末による乗車券も発売している。現在の一日平均乗降数は142人。駅名下の「ピースフル和田」とは観光案内所だが、行った時は開店休業状態だった。駅前からは、小浜~大阪の高速バス「わかさライナー」が朝夕2便が発着する。大阪までの運賃は3000円。

若狭和田駅から青戸の入江に沿って、大飯町犬見に通じていた4.7キロの犬見鉱山軌道が今回の廃線跡。犬見鉱山にあるニッケル鉱や、安土山の山麓の肥鉄土(鉄分を含んだ肥料用の土)の搬出として使われていた。犬見鉱山は大江山ニッケル鉱業(現・日本冶金)の系列の鉱山で、ニッケルの採掘を目的に昭和15年から操業が始まった。小浜線若狭和田からは1067mm、4.7kmの専用軌道が造られ、国鉄の無蓋貨車で、ニッケル鉱を八幡、七尾にあった精錬工場へ運んだほか、対岸の港からも船舶で送られた。若狭・丹後地方にはニッケルを含む蛇紋岩地帯が帯状に走り、いくつかの鉱山があった。その代表は、加悦鉄道の加悦の先にある大江山鉱山である。戦後になると、途中にある安土山の山麓で肥鉄土の搬出も行われ、北陸・近畿一円に送られたが、鉱山そのものは資源が枯渇して閉山となり、結局、昭和52年12月に軌道も廃止された。手持ちの五万分の一地形図「小浜」(昭和36年測量)にも載っている。中央が若狭和田駅、そこから90度カーブして入り江沿いに続くのが、今回紹介の犬見鉱山軌道。

国道27号の前、ファミリーマート若狭和田店の前に幅数メートルの小川があり、軌道はカーブしながら渡って行った。夏草に覆われて駅寄りの橋台跡は明確でないが、反対の国道側には、コンクリート製の橋台がはっきり残っていた(写真中央)。そこから先は、軌道は、ほぼ90度カーブして入り江沿いに鉱山へ向かうが、廃止後に土地の区画整理が行われたようで、痕跡は全く残っていなかった。
他のレポートによると、駅から海水浴場へ向かう県道との交差付近には盛土跡があるようだが、現地へ行っても確認することができなかった。以降のルートは時間の関係で訪ねていないが、道路に飲み込まれて何もなく、終点付近の積出施設も残っていない。先ほどの川を渡る橋台が唯一の痕跡だ。

ここまでなら、ほとんど何も残っていない専用線跡になるのだが、ひとつ注目すべきは、使われていた蒸機が、加悦鉄道で働いていたC160と1260だったと言う事実である。この軌道が、加悦鉄道とも関係の深い日本冶金の系列下にあったため、一時的に貸し出されて、交代で使われたらしい。機関士も加悦から出張して来たと言う。当時の資料・写真は無いようだが、C160は昭和17年製Cタンク機で、戦時製造のため、状態が悪く、加悦で嫌われて和田へ送られたのかもしれない。使用期間も不明だが、RMライブラリー「加悦鉄道(下)」には、C160は「昭和24年3月から昭和32年10月まで犬見鉱山へ貸与」と書かれている。現在、京都市の大宮交通公園に保存されているC160である。1260のほうは、大正12年製Cタンクで、簸上鉄道5号として使われ国有化で1261号となった。 なお、ひとつ隣の駅、若狭本郷から父子鉱山まで本郷軌道という人車軌道もあったそうだ。

もうひとつの目的、60年前に行った和田の民宿街を歩いてみた。良く晴れた日曜日の午後、盆は過ぎてはいるが海水浴客らしき人影は全くなかった。地元の女子高生二人が駅へ向かって歩いていくだけだった。ただ「旅館」の看板を掲げた民宿が営業中なのには驚いた(左上)。たまたま歩いていると地元の古老と話すことができた。もと国鉄職員で小浜線のほとんどの駅に勤めたという90歳の方で、かつての若狭和田の夏の混雑ぶりを懐かしそうに話してくれた。また、別荘として使われていたのか、下見板張りの洋館が駅前に残っていたのが印象的だった(右上)。
60年前に泊った民宿がなんとそのまま残っていた。地理的な確信はなかったが、庭先の向こうを通る小浜線の角度を覚えていて、“ここらへん”と見当を付けて行くと、ドンピシャの場所に、覚えていた屋号と同じ表札を見つけて、“ここや!”と確信した。我ながら自分のカンを自慢したくなった。

 夏の思い出 2017-4  ある駅を訪ねる」への2件のフィードバック

  1. 特派員様、
    すばらしいレポート、ありがとうございました。
    場所は違いますが同じような民宿で数回夏休みを過ごしました。こちらはもうないでしょうが、名前だけは忘れられません。「畠中四郎次郎」さんでした。
    それにしても犬見鉱山軌道などという鉄道があったことなど知りませんでした。

    • 米手さま
      ご返信、ありがとうございます。犬見軌道は、小学生の時、民宿に泊まりに行った時は盛業中で、地図から見ても、民宿へ行く途中に軌道を横断しているはずですが、全く覚えがありません。駅前の観光案内所には、民宿の一覧地図があり、それによると、いまでも和田では30~40軒の民宿があるようです。「畠中四郎次郎」さんがあったかどうかは覚えていませんが、民宿に泊まって何日も海水浴三昧なんて、とうの昔に廃れていると思うのですが、この密集ぶりには驚きました。

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