大捜査!「イメージは木枯し紋次郎」はどこ?

 伊那谷といえば「木枯し紋次郎」のイメージがつきまとう。「木枯し紋次郎」オープニングタイトルの最初の場面は背景に山々が連なっている道を紋次郎がこちらへ向かって歩いてくる。撮影された場所を調べている人がいて、それをネット上で見ると長野県伊那市高遠町にあるとのことである。やはり飯田線沿線の伊那谷であったようだ。

 飯田線には学生の時に3回行っている。しかし、最近はご無沙汰である。よくテレビなどで秘境駅の紹介やツアーで秘境のローカル線乗車などと注目されているが、当時は蒸機に比べれば注目度は低かったと思う。それでも鉄道雑誌には時々紹介され、私が後に3回も飯田線へ行くきっかけになったのは「鉄道ファン1966年9月号」にある「鉄道ファン・フォトサロン 宮沢孝一作品集」である。宮沢氏はこの作品集に書かれている文によると特に金野、唐傘、千代あたりを好んで行かれて撮影されている。写真を見るにつけ、いつか行ってみようと思い続けていた。そして初めて飯田線に踏み入れたのは1970年夏の清里合宿の後である。ところが残念ながら写真はない。映像は頭の中。途中、温田の南宮ユースホステルに泊まったのであるが、少し早く着いてしまった。俳優の浪花千恵子さん(若い人は知らないと思うが)に似たおばさんがまだ利用時間前なのでユースに入ることできないと言われたので、近くをブラブラする。ちょうどユースは駅のすぐ裏であった。ここで次の年に夏期合宿をするとは・・・

 飯田線前期夏期合宿の前に1971年2月に「珍説飯山雪合戦騒動 上境合戦」があった越後鹿渡合宿があった。その合宿終了後にY氏と飯田線に行っている。宿泊地は温田の南宮ユースホステルである。ところで飯田線を撮影をしているのであるが場所を記録していない。どこで撮影したのか全くわからない。総本家青信号特派員さんの投稿を見て、気合をいれて撮影場所の捜査を行ってみよう。まず、撮影順番がどのようになっているかである。飯田線の前が飯山線なので、飯山駅で撮った写真の次が問題である。それは・・・

写真.1 ヘビとカエルの干物の串刺し (注.写真番号はネガに写っている順番としている。) 

 

いきなりヘビとカエルの串刺しである。ここのユースのご主人は町の何かの世話役をされてるようで、夕食が終わってからニューギニアへ戦没者の遺骨収集に行ってこられた時の話をしていただいた。そういえば家の中にニューギニアの仮面が飾ってあった。そして、カエルとヘビの干物があるから食べてみるかと言って持ってこられたのがこれである。少し食べてみたがそんなに変な味ではなかったようだったと思う。信州はイナゴの佃煮が有名であるが、伊那谷ではザザムシの佃煮というものがある。家族旅行で伊那谷の東側にある中央構造線が形成する谷を旅行していた時、売店でザザムシの缶詰を売っていた。今は高級珍味で高価なものらしい。最初に飯田線の写真ではなくヘビとカエルの写真があるということは飯山線から温田へ直行したようである。そうすると飯田線の撮影は翌日におこなったようだ。ところでどこで撮影したのだろうか。最初は駅での写真だがどこかわからない。

写真.2 扉越しに見たED19

写真.3 どこなのだろうか?わからない。

この写真では手がかりがない。しかし、一枚目の車内からの写真と二枚目の駅は違うようだ。背景の建物が違っている。しかも、二枚目の写真から見ると比較的大きな町のようである。わからない。では次の写真はというと

写真.4 飯田線に気動車急行が走る。

こうなると全くわからない。しかし、この時に利用した5万分の1地形図があった。持ち歩いてよく見たところが変色している。

茶色く薄汚れたところが屋外でよく見ていたところ(この地図は昭和38年測量昭和41年補足測量)

これからみると、どうも伊那大島駅から伊那田島駅の間のようだ。手がかりになる駅の写真があった。

写真.9 貨物列車と電車の交換

この写真はどこの駅なのだろうか。(写真番号はネガに写っている順番)よく眺めて、考えてみると踏切のところの右側の道の方向がヒントになりそうだ。この写真の道に合いそうな駅を地図で探してみる。

上片桐駅のようだ。そうすると写真は上片桐駅と伊那大島駅の間か伊那田島駅の間で撮ったのだろう。

写真.5 山をバックに鉄橋を渡った2連の電車

 

 

地形図を見ると伊那田島駅までは距離が短い。しかも写真.5に写っている鉄橋が伊那田島駅の間にはない。ところが伊那大島駅の間には川があり鉄橋がある。そうすると上片桐で降りてこの近くまで歩いたのだろうか。いや、違うような気がする。その前の写真.4をどこで撮ったかわかれば、どのようなルートで来たかわかる。写真.5は鉄橋が写っているので場所の特定がしやすい。考えてみるに多分、左の地図で黄色の矢印に示したところだと思う。そうすると写真.4はどこで撮ったのであろうか。

 

 

右側の地図で黄色の矢印から写真.4を撮ったとすると、上片桐からであれば遠い。そうすると伊那大島で降りて歩いたのではないかと思う。これで納得できる撮影ルートがわかると思う。

次の写真.6は山を背景に電車が正面からやって来る。なだらかな山であるが、電車の走っているところとの間に天竜川が刻みこんだ谷があることが想像できる。望遠レンズで撮ったので強調されているが伊那谷の河岸段丘の規模の大きさがわかる。この写真を見るといつも木枯し紋次郎のオープニングタイトルの最初の場面を思い浮かぶ。電車が木枯し紋次郎である。

写真.6 「イメージは木枯し紋次郎」がやって来た。

実は写真.4と6がどこで撮ったか全くわからなかった。それ以外は鉄橋があったりしていたのでわかるのであるが、ヒントになるものがあまり写っていない。それでどこで撮ったか捜査するのはあきらめていたのである。写真.6は天竜川を越えた東側の山が写っているのはまちがいないのであるが、写真.4との時間的、場所的関連性がわからなかった。それが解決したのは架線柱であった。

手前に同じバーがはっきり写っていたのでバー中央部のグレーと黒の違いを拡大して確認

これからわかったことは同じ区間を少し場所を変えて、違う方向にレンズを向けていたことがわかった。そして、写真.9までには写真.7と8がある。

写真.7 4連の電車 右から2両目の電車の色が違うようだ

写真.7のいちばん左端は拡大してみると扉の多い電車、そして右から2両目は少し色が違うようだ。調べてみると大糸線から来た電車がこんな感じの色だったらしい。出稼ぎに来たのか、そのまま居ついたのかわからないが・・・

写真.8 165系4連の急行列車が遠くに走っていくのが見えた。

165系の4連のようだ。たぶん急行列車であろう。当時は80系、165系、キハ58と多彩な急行列車が走っていた。それでは写真.4から写真.9までの撮影場所を地図上で表してみよう。

ところであと写真が3枚ある。これも撮影場所がわからなかった。あれやこれや考えた挙句に最後の写真に写っている踏切がヒントとなった。そしてここだとめぼしを付けて、ストリートビューで現在の状態と比べてみた。そして、ここしかないと確信を得たのである。たぶん、間違いないであろう。

写真.10 電化区間で気動車急行

写真.11 上片桐で気動車急行と交換してやって来たED19の貨物列車

写真.12 場所がわかるヒントの踏切が

では撮影場所を地図で示すと

ほぼ、間違いないと思うのだが・・・

これで長年のもやもやが晴れたような気がする。しかし、写真.2と3がどこの駅なのかわからないのが心残りであるが仕方ないだろう。そして、あろうことか、同じ年の7月に飯田線での前期夏期合宿が行われることになったのである。合宿場所を決める集まりでちょっと飯田線と口を滑らしたのが運の尽きであった。

大捜査!「イメージは木枯し紋次郎」はどこ?」への15件のフィードバック

  1. どですかでん様
    いつもながらのどですかでん様の観察眼と「地図の変色したところが屋外で見ていたところ」と捜査対象を狭めていくアプローチのやり方には舌を巻きます。私もみなさんに影響されて昔のネガをスキャン中ですが、ほとんど撮影場所がわかりません。また、特定方法を教えてください。

    • なんでやねんとか、どこやろとか、次々に湧いてくる疑問点を時間をかけてあらゆるところをそんなことはないやろと思わずなんでも調べていけば何とかなります。今回も地図が出てきたので眺めているうちにふと思いついて大捜査となったのです。

  2. 私も高校生の頃、温田の南宮YHに泊まり蛇の干物を食べさされました。鱈の干物のようでした。

    • いや~米手さんもヘビの干物を食べられたのですか。高校生の時に泊まられたとは飯田線で合宿でもされていたのですか。

      • 一人旅でした。その時は行程の都合で飯田線を使い、たまたま日が暮れたから南宮YHに泊まったという、今から考えると誠にもったいない話ですが、電車に興味がなかったので写真も撮っていません。河さんや特派員さんから大目玉と大ブーイングが聞こえてきそうです。

  3. 浪花千恵子さんとは懐かしいですね。小学生の頃浪花千恵子と花菱アチャコが出ていたラジオドラマ「お父さんはお人好し」をいつも聞いていました。最初二人は本当の夫婦かとも思っていたくらいうまかったですね、また映像が無い分想像力が働いていたと思います。浪花千恵子は一度心斎橋で買い物されているのを見かけたことがあります。周りの人が「あ!浪花千恵子や」といっていたのを覚えています、今で言う「オーラ」があり輝いて見えました。ところで飯田線ですが、1973年の古いネガがあります。撮影場所が分からずどうしようかと思っていましたが、今回どですかでんさんや総本家さんの内容でおぼろげな記憶をたどりつつ、便乗させてもらいます。

  4. はじめまして。
    古のユースホステル探索、調査しておりまして、南宮ユースホステルで検索したところこちらの記事が掛かり、訪れた者です。

    南宮ユースホステルですが、建物の中は民家そのものじゃなかったですか?。確か建物はペアレントの自宅か実家で、教育関係の重職者であったペアレントがユースホステル運動に共鳴して開設したとの話を耳にしたことがあります。
    あと、こちらのユースホステル、中途から閉館するまでは女性専用ユースホステルとなっていました。泊まられた時期はまだ男性も利用可だったということなのでしょうけど。

    ブログの本筋とズレてしまって申し訳ないのですが、ひとつ教えていただけますでしょうか。
    写真でアップされているスタンプ帳にある『ユースホステル桜淵キャンプハウス』、ここって桜淵県立自然公園内に当時あったキャンプ施設の管理棟か何かに泊まられたということでしょうか?。
    ここのユースホステル、どこにあったのか痕跡をずっと探しているのですが、地図を見てもさっぱりわからず仕舞い。個人の自宅とか公共の施設を開放したものではないんだろうなと予想はしていたのですが、所在地地名を見ると公園内でもないということで、私の中ではずっと謎扱いなんです・・・。

    • んにゃ様 コメントありがとうございます。お尋ねの「ユースホステル桜渕キャンプハウス」ですが、まさしく桜渕県立自然公園内にあった建物でした。窓から川が見えていました。豊川だと思います。次の日に泊っているのは「鷲羽山ユースホステル」ですが、この時は同行者と下津井電鉄に行くことになっていたので名古屋発の特急つばめで大阪を通過して岡山へ行くことになっていたのです。それで南宮ユースのある温田からは間に合わないので公営ユースを探すと新城の桜渕キャンプハウスがあったので、中継の宿泊地としたのです。南宮ユースのペアレントさんは教育委員会の仕事をされていると聞きました。確かに南宮ユースはペアレントさんのご自宅でした。温田駅のすぐ裏でしたので飯田線の電車がよく見えました。写真の右上に少し木立の隙間から見える木造住宅が南宮ユースです。ユースの話でついでに一つ。東北旅行で、青森の脇野沢ユースの前日に泊まったのが龍泉山ユースホステルです。次の脇野沢ユースの人が龍泉山のスタンプを見て、びっくりして「ここは青森で最初にできたユースですよ。」と教えていただきました。ちょうど浅間山荘事件があった頃です。どうしてここに泊まったのかと聞かれましたがちょっと言ってごまかしましたが、ここは南部縦貫鉄道の終点だったので泊ったのです。あまり、訪ねる人がいなかったようです。よくぞ訪ねてくれたという感じでした。これからもデジ青をよろしくお願いします。昔の旅の話があるとユースの話が出てくるかもしれません。とにかく、とんでもない所に泊まる連中が集まった会ですから・・・

      • ユースホステル桜淵キャンプハウスは愛知県の営む施設だったんですね。
        桜淵公園のどのあたりにあったのか憶えていらしゃっいますでしょうか?。古い地図で見ると川沿いではない場所にキャンプ場があることになっているのですが・・・。
        建物は残っていないのでしょうね。ストリートビューで確認する限り、川が見えるような位置にそれらしき建物は見当たらないので。

        便数の過小な国鉄飯田線の沿線にある泰阜村から倉敷市の鷲羽山ユースホステルまで移動はさすがに無理がありますよね。その意味でこの地に中継宿泊地があったのはよかったのでしょうが、それでも新城市からの移動は相当な強行軍ですな・・・。

        南宮ユースホステル、今でも木造の家屋は健在です。写真に写ってるものと同じかどうかはわかりませんけど。先日、現場で確認してきました。「昔はここに若い人たちが多数出入りしていたのかぁ。宿泊客は2階に泊めていたのかなぁ。」とひとり思いを馳せながら。
        自宅開放型のユースホステルって味があって自分は好きでした。このユースホステル、なんで閉じちゃったんだろ?。今でも開館し続けてくれればいいのに。

        竜泉山ユースホステル、自分が調べた限りでは青森県内で4番目に開いた施設のようです。脇野沢ユースホステルってペアレントが写真家として知られているのですが、この当時お会いになったペアレントは恐らく今の写真家ペアレントとは別の方のような気がします。

        こちらのサイト、他のページも見てますよ。掲載された写真、どれも味があって良いですね。自分は乗り鉄というよりも線名調べ鉄、将来計画調べ鉄ですけど。

        • んにゃ様 ご返事ありがとうございます。南宮ユースホステルの建物がまだ健在しているとは思いませんでした。たしかにグーグルマップの航空写真で確認できました。ところがストリートビューでは建物のほんの一部しか見ることができませんでした。県境をまたいで移動できるようになれば行っていたいものです。また、新城から岡山までの移動もそんな強行軍ではありませんよ。こんなことは当たり前のように行っていたのですから。
          夜行のはやたま号に乗った時のことですが、谷汲駅で写真を撮って、名古屋へ。そこで南紀均一周遊券を買って、多分関西線の急行かすがに乗ったかもしれないと思いますが、天王寺に着いて家に帰らずに再びはやたま号で新宮へ。そこからどこへ行ったか不明です。
          それと鉄道に関してはいろいろな楽しみ方ができるのがいいですね。将来計画調べ鉄も面白そうですね。いまはあまり出かけることができないのですが、なにかそれなりに楽しみ方がありそうです。とにかくデジ青でいろいろ楽しんでいただければ幸いと思います。

  5. YHというと、奥中山ユースホステルはどうなっているのかな?
    真夏の午後、何もない開拓地のような砂利道を黙々と登っていったホステルへの道、暑かった。西日に中で黒くなってそびえる山の中腹から一台のジープが降りてきて「お疲れ様、迎えに来ました」と言って乗せてもらったのを覚えています。

    • 返事が遅れました。私は泊ったことがないのですが、調べてみるとすでに閉館して建物も解体されて更地になっているようです。キング・ドキュメンタリー・シリーズで「日本の鉄道 奥中山の3重連」というレコードがあり、今でも持っています。18cmのLP盤です。写真はそのジャケットです。鉄道のレコードはもう1枚持っているのですが、他の方でこのようなレコードを持っている方はおられるんでしょうか。

      • 所在地がわかる地図とか略図は持っておられませんか?。それらをアップしていただければ、ストリートビューで近況を辿ることは可能ですが。
        ちなみに自分が以前、恐らくこの地にあっただろうと思われる場所をストリートビューで見た限りでは該当するような建物は見当たりませんでした。

  6.  どですかでん様
     緑や花の美しい五月も中旬に入りましたね。武漢発ウィルスのお陰でなんとも・・・嗚呼
     最初のホステルのスタンプの18番、昭和47年3月4日福井県婦人青年会館にお泊まりなんですね。48年前。懐かしいな・・!
     駅から徒歩7~8分お堀端の中央公園横、多目的な建物だったと思いますが、その中にユースホステルがあったことを思い出しました。福井城址の石垣がスタンプに描かれていますね。
     今はずいぶん様相が変わってしまったと思います。

    • マルーンさんのコメントがあるまで完全に忘れていました。福井の前は多分、尾小屋鉄道と思うのですが中継宿泊地と泊ったかもしれません。ひょっとしたらこの時に京福に乗ったかもしれませんがわかりません。この時の福井は忘却の彼方です。

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