【89896】誰でも撮った高倉陸橋

京都駅の高倉陸橋から下にたむろする蒸機を撮った人は多かろう。石炭ホッパーがあるため、機関車は常に数輌いるから、何時行っても、当然誰でも同じような写真が撮れる。東海道線電化の1956年11月19日以降は、C59やC62、C51が消え、奈良線C58に京都入換のC50ぐらいになってしまうが。まあ誰でも撮った写真だが、60年以上前というだけでご勘弁を。キャプションはいらないだろう。




で、駅前に出ると西寄に北野線の電車がいる、という訳。バックのホテルラクヨウは米軍が接収していたが、講和後は返還された。この一帯から東本願寺前にかけ、法華俱楽部やら日本旅館がひしめくように軒を並べており、本願寺詣での講や修学旅行生相手も多かった。

撮影は1955年10月20日―小生浪人1年目で、予備校に行くと称して家は出るが、映画館かこんなところをウロウロして夕方まで時間をつぶしていたのである。内浜まで行くと、きれいではないが安い飯屋(当然飲み屋も)が沢山あった。確か古道具の露店市が立つ日があり、薪割り用に斧(よき)を買ったことがある。1960年12月、15年住んだ山科の借家を引き払い、塚口に引っ越したが、小生は一人で山科に引き返し、残してきた古タンスの類をこの斧でぶっ壊して薪にし、次の借家人の為裏口に積み上げておいた。五右衛門風呂を沸かし(タオルはあったが石鹸を忘れた)、確か重澤旦那と2人で電気もガスも解約した家で寝袋で寝た記憶がある。翌朝寝袋の縛り帯に斧の柄を通してかつぎ、阪急で塚口の新居に帰ったが、乗客も車掌も、裸の斧を担ぐ若者にかなりの不信を抱いているのがありありと分かった。今なら警察通報ものである。

誰でも撮った高倉陸橋” への2件のコメント

  1. ラクヨーホテルの事は誰に言っても信じてもらえませんでした。証拠写真があるとは有り難い限りです。先日、関電の京都支店(ラクヨーホテル)へ行くことがあって「ここは昔ラクヨーホテルで、戦後は進駐軍が接収していた」と言いましたが理解されませんでした。四条烏丸下ルの丸紅ビル(今のCOCON)も府立植物園も龍谷大学深草学舎も進駐軍の支配下にあった時代の話です。

    • 湯口徹さま 米手作市さま
      またまた懐かしい写真を有難うございます。小生が小学生の頃によく通ったのもまさにこの場所でした。こだま型電車ではなく、EF58に牽かれたつばめやはとをヨダレを垂らして眺めていた頃ですから電化直後頃だと思います。当時西寺遺跡の近くに住んでいたので、下校後ほぼ毎日のように梅小路の反対側(東海道線の南側。模型運転会がひらかれる蓮華寺付近)へ自転車を飛ばして見に行きましたが、たまに悪友と連れ立って高倉陸橋まで遠征していました。
      小学生なのでダイヤを知る由もなく、また腕時計も持っていませんから行きあたりばったりでした。電化前はC62やⅭ59の牽く客レ、電化後はつばめ・はとはもちろんモハ80系の準急比叡やEH10、EF15の貨物が記憶に焼き付いています。
      高倉陸橋ではEF58がたまに留置線から出てきて転車台に乗り、向きを変えて出庫して行ったのを憶えています。
      ところで蒸機と違い、電機には架線が要りますから転車台上にも架線があったはずですね。レールは左右の位置さえ合えば通過できますが、架線はどういう構造になっていたのか、今頃になって疑問が湧いてきました。ご存知の方はお教え下さい。

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