瀬野八本松1959年3月

憎っきネオパンSSのヴィネガー・シンドロームに関してはTSURUKAME氏が総括して下さったのでスルーし、シコシコ修整できた(修整不能も何コマかある)「せのはち」画面をご笑覧賜りたい。この10km区間を短靴で歩いたのだが、上りの機関車が盛大に散布する砂で、全く以て歩きにくく、再々靴に入った砂を排出せにゃならんかったのが未だに記憶に残る。恐らくは保線区が時折砂を撤去していたんじゃないか。何しろ枕木が埋まっていたのだから。

上の地図は当時のもので、今では沿線に家が立ち並び、かつては山陽本線と完全に並行していた国道2号線は、八本松側に4km程バイパスができてショートカットされ、その区間は山陽線と少し離れている。








何やらヤケクソ気味に画面を並べ立てて恐縮だが、特段解説はいらんだろう。ただ「せのはち」で写真を撮った人は多いが、築堤の下からや、国道を隔てて、という写真はほぼ見たことがないのだが。
先年のDRFC-OB会広島行きの際、一生懸命線路を見続けたが、昔の面影は甦らなかった。

 

瀬野八本松1959年3月」への3件のフィードバック

  1. 湯口先輩様、
    懐かしい写真をありがとうございました。
    やはり戦後生まれの悲しさで、ここへ通ったのは電化後でした。築堤上には架線柱が並び、このようなシンプルな写真は撮ることはできませんでした。

  2. 湯口 徹様
    こういうヤケクソは大歓迎です。セノハチはD52補機の大舞台ですがついでにC59、C62の旅客列車もお願いしたいところです。私は戦中生まれですが、架線のないすっきりした西の箱根の風景には間に合いませんでした。ヴィネガーシンドロームの修正は体力、気力、根気がいると思われますが宜しくお願い致します。

  3. なんでやったか記憶がないんですが、故高橋正雄さんが瀬野機関区の方と親しくされていて、1962年(昭和37年)にtsurukameさんと高橋さんも一緒に、大阪から夜行準急「ななうら」で訪れたことがありました。
    (今では考えられないことですが)瀬野から八本松の間、D52の補機の機関車に乗せてもらい、そのあと、瀬野で機関区の大きな風呂に入れててもらったことを思い出しました。
    広島に着いた時に買った新聞で「三河島事故」を知りましたので、1962年5月4日のことでした。

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