◆ た~ちゃんの電車めぐり  ⑪

平安京の都大路の幅は広く、朱雀大路は84mもあったとか、戦国時代や度重なる大火で、京の街路は幅が狭くなっていました。明治維新後、中心のひとつであった三条東洞院で東西の道幅を測ってみますと、6.5mぐらいです。京都電鉄(京電)が線路を敷く時に選んだルートが川筋を中心としたのは、そのためでありました。西洞院通は、川を暗渠化して道幅を確保しました。


明治40(1907)年、京都市は町の近代化のため三大事業に着手することになりました。第二疏水建設と発電事業の増強、疏水を利用しての上水道事業。主要道路幅の拡大と市営電鉄(市電)の経営でありました。
図をご覧ください。明治45年、大正元年、大正2年と振ってあるルートが、市電第一期線として、特許を受けた区間です。道路幅拡大とともに、市電が開通していった訳で、明治45(1912)年6月11日が開業の日です。
市電が走り始めた新しい都大路の幅は一般に9間、12間、15間と言われました。9間幅は歩道なし、12間幅は歩道ありとすれば思い当たる方もあると思います。一間、1.82mを掛けた近似値の幅です。15間幅とは烏丸通です。覚えていらっしゃいますか、烏丸通は市電が道路の中心を走らず西に寄っていたのを。東側の車道が一車線分広くなっていました。これは天皇陛下が京都へいらっしゃった時、陛下の御乗用車が烏丸通の中央を走っていただけるように市電が遠慮したのです。
市電は、道路幅拡大工事に当たり大きな役割を別に背負っていました。それは、市電経営による儲けを、三大事業の費用調達のため発行した外債返済に投入する目論見があったのだそうです。
市電第一期線は大正6(1917)年の今出川線の東進で完成を見ました。京電のルートを合わせますと京の中心に電車網ができました。ところがここで先に開通していた京電と市電の間で争いが始まりました。市電は強引に京電の営業区間(図参照)に割り込み、広い道路の中心をすいすい走るやらで、京電に圧勝してしまったのです。
経営難に陥った京電は、京都市に買収されることになりました。ここに日本で初めての電車を走らせた京都電気鉄道株式会社は、その幕を閉じることになったのです。その日は大正7(1918)年6月30日、翌日から京電は、市電となって走りました。

(染と織新報社「染と織」より転載)

◆ た~ちゃんの電車めぐり  ⑪」への2件のフィードバック

  1. 質問があります。
    子供の頃から不思議に思っていたことがあるのですが、大宮の陸橋(国鉄の跨線橋)の真ん中より少し南寄りの地点に陸橋から降りる階段が付いています。うっすら覚えているのは、まだ徒歩や自転車での通行ができていた頃にその階段を上り下りする人がいたことです。この階段は何のためにあったのでしょうか?一説には陸橋上に市電の停留所があったとも聞いています。本当でしょうか?
    教えて!長老様。

    • 長老様も年末でお忙しいようですので、代理投稿者から代わってお伝えします。たしかに大宮陸橋の上に停留場がありました。「大宮八条南」で、昭和10年に開設され、昭和15年に廃止されています。わずか5年間の存在だっため、写真は見たことがありませんが、この時代の地図には、ちゃんと記載されています。市電大宮線は昭和47年に廃止されていますが、それまでは、階段は出入り自由で、私も階段を上がって市電の写真を撮った記憶がありますし、近所の人も線路の向こうへ行くのに日常的に上り下りしていたと思います。

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