【92707】 地図を携えて線路端を歩いた日々 -20-

廃止される郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、まさに“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月撮影)

能生で数時間撮影したあとは、列車に乗って、次の撮影地の名立、そして郷津へと移動しました。これから向かう能生の東寄り、直江津までの区間は、本格的な別線線増区間となり、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、なかでも筒石は頸城トンネルの中に地下駅として移設されます。続く有間川、谷浜は従来駅を利用するものの、有間川~谷浜は別線線増となります。谷浜~直江津も別線線増で、途中の郷津は唯一の廃止駅に。このほか、複線化により、木浦(浦本~能生)、百川(能生~筒石)、西名立(筒石~名立)の3信号場も廃止になるなど、完成を一ヵ月余り後に控えた同区間は、大きな転換期を迎えていました。

能生を11時47分発の小松発長岡行き521レに乗って、二駅先の名立まで移動。
名立に降りて、まもなく上野発金沢行き特急「はくたか」が通過した。「はくたか」は、大阪~上野・青森の特急だった「白鳥」を、昭和40年10月改正で全編成を青森行きに振り替えた代わりに、信越線経由の上野~金沢の特急として誕生したもの。この昭和44年10月改正で、北陸本線が全線電化するので、「はくたか」は485系編成に生まれ変わるとともに、信越線経由から上越線経由に変更されるので、この82系も見納めである。その後、上越新幹線開業の昭和57年11月改正まで走り続けて「はくたか」の名はいったん途絶えるが、平成9年3月開業の北越急行経由の新幹線連絡特急として復活、越後湯沢~金沢を中心に運転された。平成27年3月の北陸新幹線の開業後は、東京~金沢の新幹線として「はくたか」の名が転用されて現在に至っている。名立~有間川も、海外沿いを走っている。2776レ、D51 617〔糸〕
有馬川で交換する貨物列車、前記のように、有間川は従来駅の利用なので、駅には架線が張られ、構内も真新しいコンクリートで造り直されていた。

郷津
つぎに降りたのが郷津だった。北陸本線の最東端に当たる駅で、ここも地滑りの多発地帯で、複線電化に際しては、谷浜~直江津を長大トンネルで短絡することになり、郷津は代わりの駅もなく、来月限りで廃止されることになった。
明治44年に国鉄信越線の駅として開業、のちに路線名が変わり、北陸本線の駅となった。昭和39年には、集中豪雨で地滑りが発生し、土砂で駅が埋まったこともあった。駅舎は山側の国道8号沿いにあったが、周囲に人家はほとんどなかった。

なお山陰本線の石見江津は、郷津の廃止により、読みが「ごうつ」と類似する駅名がなくなったため、翌年に石見が取れて「江津」と改称された。また、現在の廃線跡は、国道8号直江津バイパスとして再利用された。駅跡は駐車場となっているそうだ。

直江津発金沢行き1226レが、うらびれた海岸沿いを行く。D51 932〔直〕
下り貨物列車、牽引のD51 588〔糸〕の次位にEF15 142を連結している。配置表によれば、この年に同機は岡山区から東新潟区へ転属しており、その際の無動力回送だろう。
上野発金沢行き急行「白山」、DF50 511〔富一〕の牽引、昭和29年から信越線経由で東京と北陸方面を結んでいた老舗の急行列車、昼行の客車急行は、この時代でも珍しい存在だった。昭和47年3月改正で、ようやく489系の電車特急に生まれ変わった。
日本海の真横を行く3571レ  D51 450〔糸〕2563レ D51 128〔直〕、直江津区のD51には集煙装置がなかった。

当時の郷津駅は、対向ホームの二面二線で、貨物時代の名残の側線も残っていた。周囲には人家はほとんどなく、駅にも乗降客は見られなかった。北陸本線の全線複線電化の躍進のニュースのなかで、北陸本線最東端の駅は、あと一ヵ月で姿を消そうとしていた。

今回紹介の北陸本線糸魚川~直江津は、JRへの継承を経て、北陸新幹線の開業に伴い、第三セクター、えちごトキめき鉄道ひすいラインに移管された。

 

 

 

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -20-” への3件のコメント

  1. 総本家青信号特派員様
    D51の旅客列車に加えキハ82系の「白鳥」・「はくたか」、昼行急行「白山」の海辺に近い架線の無い広々とした風景。よろしいですね。電化真近なのに別線新設で最後まで未電化状態であった場所を選ぶなんてにくいです。情報の少ない時代であったと思いますがさすがですね。私など情報誌を読まず行き当たりばったりで、それはそれでいいと思ってはいます。今日は関東地方は大雪でしたが、「おとなの休日」最終日で井原さんの保存客車に刺激を受けて長野の保存蒸機を訪ねてきました。総本家さんのご説明にある新幹線「はくたか」E7系に乗車しましたが長野-東京間を高崎、大宮、上野停車で1時間半。碓氷峠をアプト式ED42のお世話になった時代とは雲泥の差です。

  2. 「白山」は横軽の牽引定数の関係か、アプト式廃止後ですが10系客車中心の編成が良いですね。ロザはスロ62に見えます。DF50次位の43系2両は勾配線区を降りて来て、直江津からDFと一緒に増結していたのか、興味が湧きました。乗り心地は個人的には10系よりスハ43系の方が重厚で好きです。

    • KH生さま
      久しぶりのコメント、ありがとうございます。さすがに細部まで見ていただいています。軽量客車が多いのは、横軽対策だと思います。ご指摘の43客車2両ですが、当時の時刻表の編成表を見直しましたが、すべて上野からの仕立てで、途中からの増結ではありませんでした。面白いのは、前の3両は指定席、スロから向こうは自由席です。製造年の古い客車が指定、新しいほうが自由席なのですね。また「白山」は直江津で前後が入れ替わりますから、上野では指定席車側が最後部になります。上野駅は櫛形ホームの構造上、客車列車の最後部に荷物・郵便車が連結されます。ところが「白山」には、荷物・郵便車の連結が無く、座席車のみです。これも横軽対策で編成が限定された結果なのでしょうか。
      スハ43の重厚さがお好きとのこと、当欄でも同系の“ズシンズシン”の乗り心地について、よく書き込みがありますね。

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