地図を携えて線路端を歩いた日々 -23-

最初に笹川流れを訪れた昭和44年8月、今川で下車して、午前中は桑川方で写したあと、午後からは、越後寒川方へ場所を移しました。ここには有名な蓬莱山があって、笹川流れの本場とも呼べる撮影地です。最近の写真を見ると、この蓬莱山を見下ろすことができる、恐ろしく危険な撮影地が存在するようですが、その当時には、その情報も無く、第一、そんな危険な目をしなくても、線路端から安全快適に撮れたものです。羽越本線の代表的な景観、蓬莱山をバックにナメクジ機が行く。真夏のカンカン照り、あまりの暑さについに降参、駅へと退散した。550レ D51 75〔酒〕

 昭和40年代前半、羽越本線を挟むように、南では信越線・北陸本線、北では奥羽本線と、前後の幹線では電化工事が進められていたが、当の羽越本線では、電化工事までには猶予があった。優等列車や一部の旅客・貨物列車こそ、DD51に代わっていたが、ほかは蒸機の天下で、旅客列車はC57、D51、貨物列車はすべてD51、気動車はローカル輸送に限られていて、いまでは死語に近い、“亜幹線”の典型のような線区だった。機関区は新津、坂町、酒田、秋田にあり、途中での牽引機の交代も見られたが、C57のほとんどの運用は、新津から秋田まで全線を走り通していた。近隣線区の電化進展で、D51の転入が相次ぎ、D51が旅客列車を牽くケースも増加していた。
蓬莱山からさらに越後寒川寄りの地点(だったと思う)の丘に上がり、C57 35+D51重連で秋田発新津行き832列車をとらえる(昭和44年8月)
羽越本線にはとくに急勾配はなく、最大でも10‰程度だったが、運用の都合で、回送を兼ねたものか、けっこう重連が見られた。832レ
DD51は東新潟区の所属で、「日本海」「きたぐに」「鳥海」などの特急・急行列車のほか、普通列車だけでなく、このように貨物列車も牽いていた。(昭和46年2月)
海と山に囲まれた、わずかに土地には耕地が広がっていた。C57の機番は不明だが、C57の配置されている新津、酒田では、煙突の火の粉止めに違いがあった。新津は回転式、酒田は皿で、この写真からは、酒田のC57であることが分かる。821列車、(昭和44年8月)

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