市電が走った街 京都を歩く  トロバス編①

最近のデジ青記事を見て思うことが、皆さんの“地元愛”の気持ちです。米手さんの“散歩シリーズ”では、お知り合いの貴重な写真を惜しげもなく公開され、西村さんからは広島地方の鉄道ニュースを丹念に報告していただいています。西村さんは市民学芸員活動として、三原市の近代化遺産もまとめられ、PDF版を私も閲覧させてもらいました。皆さん、鉄道趣味活動を通じて、調査・研究を続けられ、地域に貢献される姿勢に敬服する次第です。ひるがえって、私にとっての“地元愛”とは? と考えると、やはり京都市電に行き着きます。過去には、乙訓老人さんらと一緒に本を出版したり、写真展を開いたりして、地域に一定の恩返しをしたつもりですが、ことデジ青については、京都市電のことを封印していました。別に理由はないのですが、京都市電が全廃されて、ちょうど40年になる今年、そろそろ封を解いて、デジ青に地域デビューを果たしたいと思っています。京都のトロバスは四条大宮~松尾橋を走り、49年前の昭和44年9月限りで廃止された。装飾をされた車両が走り、市民に別れを告げた。
我々世代が知りうる京都市電の廃止第一号となると、昭和36年の北野線です。私の鉄道撮影の第一号にも当たりますが、さすがに小学校6年生では、デジ青を飾るような写真は撮っていません。そのつぎの廃止となると昭和43年9月廃止のトロリーバス(梅津線)です。鉄道の一員であり、都市を走ったトロバスとしては、最古の開業です。時あたかも、関電トンネルトロリーバス(扇沢~黒部湖)15両が充電式電気バスに置き換えられることになり、国内に残るトロバスは、立山黒部貫光の立山トンネルのトロバスのみになります。まずは、そのトロバスを手始めとして、当時の写真と、現在の対比をして、“地元愛”の発露としたいと思います。

トロバスの歴史 日本のトロバスは、昭和3年に開業した日本無軌条電車の新花屋敷トロリーバスが最初の開業だが、わずか4年で休業・廃止されてしまう。都市を走ったトロバスとしては、昭和7年4月に開業した京都市の四条大宮~西大路四条が最初である。そのつぎは、戦時中開業の名古屋市であり、それまでの11年間は、日本のトロバスは京都だけだった。京都がトロバスを計画した理由は、市の周辺部の交通機関として市電より建設費が安く、バスより輸送力が大きく、欧米においても盛んに採用されつつあったとされる。よく言われるのは、開業区間には、国鉄山陰本線、京都電灯嵐山線(当時)が四条通を横断し、さらに地下には新京阪鉄道も走っており、レールを敷かなくても済むトロバスを採用したとの理由が挙げられる。もちろんこれも理由の一つだろうが、ぜひ新しい輸送システムを採り入れたいとする京都の進取性だと理解したい。また新花屋敷トロバスの製造したのは、大阪にあった日本輸送機製作所(現・三菱ロジスネクスト(長岡京市))であり、最初のトロバス、新花屋敷も近くであり、トロバスのノウハウが、京都周辺に整っていたことも理由なのかもしれない。
トロバスは長らく1.6キロだけの路線だったが、昭和33年12月廃止の市電梅津線西大路四条~梅津の廃止により、代わってトロバスが西大路四条~梅津(のちの高畝町)を延長し、車庫も壬生車庫からトロバス専用の梅津車庫が開設された。昭和37年になると、道路拡幅された四条通をさらに西進し、梅津~松尾橋が延長され、四条大宮~松尾橋5.2キロの全通を見た。この時、松尾橋からさらに延長して桂まで、京都駅から堀川通を経由して上賀茂までトロバスが計画されたが、実現はしなかった。

開業当時の四条大宮、交通局発行の「さよなら乗車券」の題材にもなった。左手に開業したばかりの新京阪の京都駅が見える(電気車研究会「日本のトロリーバス」より)
 四条大宮今昔 始発の四条大宮西入る今昔である。松尾橋方面から四条通北側の終点に着いたトロバスは、赤信号になると、ぐるっと方向回転して、四条通を横断し、南側の乗り場に着き、再び松尾橋方面に向かって出発した。トロバスの背後にあったのは、映画館の大宮東映、新京阪・阪急の終点だった頃の四条大宮は、京都の代表的な繁華街で、多くの映画館が軒を連ねていた。現在の同地点は、飲み屋などが入った雑居ビルになっている。この付近は、トロバス時代は南北に寺院があった静かな地域で、大きな建物と言えば、京阪バスの本社ぐらいだった。それらは、ほんどマンションに変わり、最近ではホテルラッシュで、中小のビジネスホテルが林立し、先日数えたら5軒あった。

戦後生まれの100形が写る、さらに昔の四条大宮での転回風景(関電HPより)
 西大路四条今昔 開業当時の終点、西大路四条の今昔である。昔も今も、阪急からの乗り換えで、停留場付近はいつも賑わっている。地下駅として昭和6年に開業した当時の面影を保っていた西院駅も、いよいよ建て替えられることになり、現在では駅舎はほぼ撤去され、発券機・出改札のみが残る仮駅状態になっている。手狭になるため、昨年には、北改札口、南改札口駅が新たに新設され、嵐電の乗り換えが便利になるとともに、乗降の分散を計った。新駅は、5階建てのビルになり2021年開業予定だ。

▲ 四条中学前今昔 西大路四条から二つ目の停留場である。旧写真だけでは、全く撮影場所が分からなかった。よく見ると、医院の看板が見え、医院名を検索してみると、四条中学前の西だと判明した。家並みはすっかり変わってしまい、対比できるものはない。新景の中央に橋の欄干が見える。これは西高瀬川からの分流で、石組みの造りはトロバス時代と変わっていないようだ。

 終点・松尾橋 トロバスの転回場と発着場を兼ねたラケット状のスペースがあった。ここでもトロバスはぐるっと回転して到着し、乗降を行った。現在でも交通局の用地として残り、松尾橋を始終点とする市バスの発着場として使われている。トロバスの後部とポールの様子がよく分かる。右は松尾橋の標識。

 市電が走った街 京都を歩く  トロバス編①」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    地元愛に大いに共感します。特に小生は米手作市さまのほんのすぐ近くの大宮五条の近くで生まれ、米手さまの妖気を感じながら育ちました。ですから四条大宮界隈はいわば幼少期のテリトリーであったわけです。写真の四条大宮でのトロバスの転回は何度も見ていましたし、大宮東映には本家の従弟たちと映画を観に行ったこともありました。なにより大阪出身の母の帰省には大宮から阪急P6を利用していましたから、ごく近い生活圏でもありました。
    さて肝心のトロバス乗車ですが、転回を見ていた記憶があることや、乗車のかすかな記憶もあることから、乗ったことは間違いないと思いますが、いつ何の目的で乗ったのか、また車内の様子はどうだったかなどはすっかり忘れてしまいました。思うに当時はトロバスを「電車」の範疇であるとは認識できず、従って変な乗り物程度にしか捉えてなかったのが原因ではないかと思っています。そのために印象が薄かったのかもしれません。大宮通りの市電や五条通りを走っていたトレーラーワンマンバス、あるいは梅津線(500型小型車の運用が多かった)などははるかに鮮明に憶えています。
    ところで西大路四条の写真を見ると、トロバスより現在の市バスの方が車幅が広いように見受けられますが、目の錯覚なのか、バスにもご造詣の深い総本家青信号特派員さまはご存知でしょうか。
    また文中、昭和36年7月中旬の北野線廃止に触れられていますが、廃止当日夕刻小生は北野神社前で折り返す数本のN電を見ていました。中学生の時でしたが、当時は金閣寺近くに住んでいて、家の用事で本家に行き、自転車で御前通りを北上して帰る途中でした。余談ですがこの時の用事といのは丁度土用の丑だったため、仕出し屋をしていた本家から「うなぎ」を貰ってくることでした。北野線廃止当日であるにも拘わらず写真一枚撮るでもなし、ただ見ていただけとは今思うとなんと勿体ないことと後悔しきりですが、その時はどうやら「うなぎ」に気を取られていたのかもしれません。以上、四方山話でした。

    • 1900生さま
      “地元愛”へのご共感、ありがとうございます。この歳になると、趣味の対象は地元に戻ってくると再認識しました。②にも書きましたが、私はトロバスには最後以外に乗ったことが無く、市電でもない、バスでもない、トロバスに違和感を覚えていました。最後になって乗っても、老朽化した車内外を見ると、やはり消えるべきして消える乗り物だと思ったのが正直な印象でした。ご質問の車幅の件ですが、トロバスは200形で2500mm、300形で2480mmでした。現在の路線バスは、道路法で2500mm未満と規定されており、都市のバスは通常2490mmに統一されていますので、トロバスとバスは同一です。でも写真で見比べると、確かにバスのほうが大型に見えます。たぶん、車高や車体長も影響しているものと思います。

      • 総本家青信号特派員さま
        ご教示有難うございました。写真では現在のバスの方が幅もあり大きく見えますが、ポテチの袋に描かれたジャガイモの例のように、錯覚ということもあり得ましたのでお尋ねした次第です。
        トロバスは電気を動力源にしているため電車の範疇なのですが、やはり感覚としては中途半端に思えて仕方ありませんね。

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