市電が走った街 京都を歩く トロバス編④

新聞記事に見るトロバス

トロバス編の続き、今回は当時の新聞に載ったトロバスの記事を採り上げました。私は、小学生の時から鉄道関係の新聞の切り抜きを続けてきました。さすがに今では、ほとんどしませんが、書籍・雑誌の情報も乏しかった時代のこと、日々の新聞に載る鉄道記事は貴重な情報源でした。なかでも京都市電に関しては、廃止や事故と言った、地元の社会的なニュースとして取り上げられることが多くありました。それらを切り抜いて、一枚ずつB5の藁半紙の台紙に貼り付け、年月別に綴じてファイル化し、京都市電に関する、自分だけのデータベースが出来上がりました。
最初にトロバス廃止のタイトルが紙面に見えたのは、廃止の2年前、昭和42年9月23日のこと、前日に、京都市の交通財政再建計画が発表され、それを受けての報道だった。読み進めると、車両数が26両とあり、戦後製造の100形6両がまだ走っていた時代だった。

廃止の年の昭和44年になると、報道される機会も増えてきた。新聞によると、市会でも、トロバス推進派の政友会と、反対派の民政党との対立があったそうな。 ▲▲「保存望む声も」のタイトルが目を引く。実際は公的な場所での保存はなかった。またトロバスの廃止理由のひとつとして「四条大宮でのUターンの危険性」が上げられている。

廃止の9月になると掲載が多くなる。写真ページの特集もある。写真は、四条坊城を行く、両方向へ向かうトロバス。 ▲▲トロバスに体して、正式に廃止の認可が運輸審議会から下りたのは、昭和44年9月17日のこと。

「お名ごり行事」についての紙面、9月25日から記念乗車券10万枚を発行、飾り皿も作った。記念乗車券は、廃止直後に売れたのは2万8千枚のみで、意外と人気が無かった。 ▲▲四条大宮で転回するトロバスの写真、代替バスにも触れてあり、トロバスと同じ始終発点とする77号系統のバスがあらたに誕生した。

最終日の紙面、記念乗車が増えて、一日平均20万円の運賃収入が、最終日曜日は35万円になったそうだ。

 

 

 

最終日、雨のなか、四条大宮で行われたお別れ式の様子、計3台が松尾橋に向かった。私は雨のため行かずだったが、地元の鉄道の最後に立ち会えなかったのには悔いが残り、以後の市電の最終日の終電にはすべて立ち会った。
「地下鉄への第一歩」「次は伏見線撤去」の文字が躍る、トロバス廃止後の記事、京都の交通体系の決意を綴る。地下鉄は夢ではなく現実のものとなる時代に入った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください