1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり

1955/57年熊本電気鉄道」への3件のフィードバック

  1. 前回の熊延鉄道の記事では南熊本の線路近くにある父方の親戚宅に泊まり、そこで5号機を撮影したようなコメントを出しました。今回の熊本電鉄ですが、母の従兄弟、つまり、小生の叔父にあたる人がJTBキャンブックス「熊本市電が走る街今昔」中村弘之著の中で熊本電鉄のことを若干書いております。名前は西村亮一と申し、阿蘇内牧の出身ですが、現在は山鹿市に住んでおります。ネコ・パブリッシングの山鹿温泉軌道は勿論湯口さんの作品が見られましたが、表紙のカラー写真は西村が撮ったようです。著者は熊本出身で鉄研三田会の方だったと思いますが、最近鬼籍に入られたと伺っております。熊本電鉄の藤崎宮の次に黒髪町と言う駅がありますが、小生の本籍地は熊本市黒髪町です。なお、叔父の西村は転勤の都合で松戸、町田にも居ましたが、京都の向島に住んだ思い出が多いようでして、京阪電車が一番好きだと言っていました。JTBキャンブックス「京阪特急」沖中忠順編著を贈呈しました。余計な話でお邪魔しました。

  2. 「京阪特急」が熊本の方に渡ったとは、ありがとうございます。黒髪町の事は覚えております。藤崎宮で車庫の在り処を尋ねたところ、歩いて20分ぐらいだと言われ未舗装にして炎天下をトボトボ……。町はずれにあったのが黒髪町でしたネ。車庫には30分以上要したと思います。20分は黒髪町だったのでしょうね。

  3. 百鬼夜行という言葉を覚えたのは、TMSの古い記事をまとめた特集号であったと、記憶します。

    この時代の地方私鉄、東京や大阪から遠く離れると、まさに言葉のようなシロモノが、大手を振って歩いて(走って)いたという事実は、まもなく新幹線が直通で通うようになるとはいえ、実に愉しい歴史の記録であると思います。
    とはいえ関東周辺でも、新京成などは、すごいものが使われておりました。

    最近、古本屋で作家、富島健夫の「故郷の蝶」という小説を、見つけて読んでいます。
    昭和33年というので1958年の出版。
    この本に当時の小倉や、行橋、苅田、宇島といった町のことが出てきます。

    東京からの特急列車で偶然顔を合わせた、同級生の男女のストーリーから、始まるのですが、新しい時代の幕開けに使われる寝台特急と、古い町に生きる故郷の人々。
    次の新幹線が走り出しても、果たしてこのような偶然は生まれるのか。

    しみじみと、モノクロの写真を眺めながら、遠い時代の九州の記憶に、思いを馳せております。

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