ゴーニ求めて大糸線へ (2)

新潟地方では記録的な大雪に見舞われているようだ。JR西日本の運行情報では、本日、大糸線は大雪のため全列車運休とのことだった。数日前には、ラッセルも走ったらしい。
さて、頚城大野、小滝で撮ったあと、ぶんしゅうさんの運転する車は、平岩へ向かった。こんどは、時間に余裕を持って第7下姫川鉄橋そばにスタンバイ、糸魚川行きを迎え撃った。

カーブした第7下姫川鉄橋を渡るキハ52。朱とクリームの国鉄色は、ことさら雪景色の中ではよく映える

大糸線は、平成7年7月の豪雨で姫川が氾濫し大きな被害を受けた。中でも平岩付近は、鉄橋流失、路盤崩壊、レール宙吊りと甚大な被害を受けた。一時はそのまま大糸線非電化区間の廃止も噂されたが、JR西日本は重い腰を上げ、ようやく2年余り後に全線復旧を迎えた。雪で覆われているので、その傷跡も癒えたように見えるが、この地方の地形・地質の険しさを思わずには入られない。

昔日の平岩駅
40年前の”帰りがけの駄賃”で、よく訪れたのが平岩だった。その当時、まだ撮影地の情報は十分にはなく、たまたま車内から見ていて、鉄橋が近く、写し易いと判断したからだった。
大学の春休みに訪れた時は、バックの山が残雪に輝き、雪解け水を集めた姫川は滔々と流れていた。北海道の帰りに寄った身には、春の訪れをはっきり感じたものだった。ただ、ポカポカ陽気は、夜行の疲れもあいまって、たちまち睡魔に襲われ、河原で列車を待つ間、ウトウト寝てしまっていた。
駅は、近隣のスキー場や温泉へ向かう客で、この区間ではいちばんにぎわっていた印象だった。現在のように、写真を撮る人間以外にほとんど人が見られないとは随分違っていた。

現在、糸魚川~南小谷間での交換は根知のみだが、当時は平岩も交換駅だった。交換するお互いの列車も長い編成で、無蓋車が並んだ貨物ホームも見られた(昭和45年8月)。

第7下姫川鉄橋を渡るキハ5243+5241+55213の編成。カラーとは逆の位置だ。その後の水害ではこの付近の被害が最も激しく、地形が変わってしまった。右手の対岸に並ぶ旅館街もすべて流されてしまった(昭和46年3月)。

スキー客でにぎわう平岩駅前。黒い長グツ姿は、その当時のスキーの標準的なスタイルだった。

現在の平岩駅。積雪は約1m、駅舎は変わっていない。「平岩駅」の木彫の看板もそのままのようだ。

ゴーニ求めて大糸線へ (1)

大糸線のキハ52がいよいよ消えるらしい。ぜひ行きたいと念願していたが、なかなか実行できなかった。糸魚川地域鉄道部のホームページを見ると、キハ52が3両とも稼動する日が何日かある。行きに青春18きっぷを使うことを考えると、おのずと日は限られる。もう行くしかない。幸い雪もたっぷりある。
こんなときに声を掛けてもらったのは、本掲示板でお馴染み、ぶんしゅうさん。近くに住んでいながら、なかなか一緒に行く機会に恵まれていなかったが、今回は、二人で北陸本線の撮影をしながらの糸魚川入りとなった。
2年上のK林さんも愛用されている糸魚川駅前のビジネスホテルに投宿、前夜は二人で久しぶりに一献交わして、翌日は午前5時に起床。前夜からキープしておいたレンタカーで出発。空には星がまたたき、晴天を約束してくれる。

始発列車は頚城大野の駅で迎えた。ようやく東の空が明るくなるころ、キハ52がDMH17のエンジン音を響かせて来た。なつかしい国鉄色が夜明けの雪原に映える。停車時間はわずか30秒、赤いテールライトをアクセントに、かじかむ手でシャッターを押し続けた。

つぎに来たのは、小滝駅だった。何気に二人でホームへ行ってみると、もう列車が着いているではないか。しまった、時刻を読み違えた。悔し紛れに発車した後追いを写すと、偶然にも、独立した雪山にだけに朝陽が当たっていた。地図を見ると明星山という1188mの山である。


昔日の大糸線
私にとって大糸線の非電化区間(糸魚川~南小谷)は40年ぶりの訪問だった。
学生時代、東北、北海道の帰途、夜行で糸魚川に着くと、大糸線内で貨物1本が撮れる。それを撮って、その日のうちに帰宅ができる。言わば、”帰りがけの駄賃”である。
信州均一周遊券でも回れたが、これを使うと本数の稼げる、小海線、飯山線へ行ってしまい、逆に大糸線へは足が遠のいた。
当時の大糸線非電化区間の運転本数は13往復あった。しかも写真で見るように長編成である。中には信濃大町まで乗り入れるDCもあった。これは、F本さんによると、クモニ83からキハユニ26へ郵便荷物の積み替えを同駅で行うためとのことである。そして、特筆すべきは、新宿から急行「アルプス」が糸魚川まで定期運転されていたことだ。現在の単行9往復とは、隔世の感がある。
貨物列車も通しの貨物がC56牽引で1往復、糸魚川~平岩間の区間貨物がC12牽引で1往復が設定されていた。C56は遠く離れた上諏訪機関区の所属で、信濃大町以北がC56牽引となった。上記の”帰りがけの駄賃”は、上りの通し貨物を狙うのだった。

姫川沿いを行くDC列車。キハユニ26+キハ52+キハ52+キハ20+キハ52の5連。乗っているキハ52はトップナンバー車だった。姫川の対岸に国道が見える。現在のようなほぼ全区間シェルターに覆われた国道と違い、まったく無防備な状態には驚かされる(昭和45年7月)。

白鬚駅、探してみましたが‥

西村さま、ご無沙汰しています。
江若鉄道高島町駅に続いて、白鬚駅の模型化に挑戦されているとのこと。ご同慶です。やはり、江若鉄道の廃止は、鉄道趣味の中でエポックメイキングな出来事であり、在学中の最大の思い出でしたね。
白鬚駅の駅舎の写真がないか、すぐに探してみたのですが、残念ながら私の撮った中には、該当する写真はありませんでした。白鬚となると、どうしても湖岸の鳥居に気をとられてしまい、駅舎までは気が回らなかったようです。
関連する図書として、大津歴博が発行した江若鉄道の図録も見たのですが、載っていませんでした。ただ、江若の木造駅舎は、おおよその意匠は共通のようで、他駅から類推することが出来るかもしれません。
お詫びに、つぎの写真2点を貼っておきます。最近、取材で当地を訪れる機会がありました。駅や線路を偲ぶものは何も残っていませんでしたが、湖上の鳥居はそのまま、神社の境内も昔のままでした。

江若最終日、車内から見た白鬚駅付近

40年後の白鬚駅跡。線路跡は国道の拡幅に利用された

「こだま」型 若き日の思い出 (4)

昭和30年代後半になると各地の幹線で電化が推進される。その多くは交流電化が採用され、直流区間にも乗り入れ可能な交直両用の特急用車両が計画された。「こだま」型の人気は絶大で、地方からも「こだま」型電車の到来が待ち望まれていた。
このような背景で生まれたのが、「こだま」型の交直両用電車、60Hz用481系、50Hz用483系で、それまでのDC特急を置き換えたり、新設の特急を誕生させた。
その嚆矢として、北陸本線に「雷鳥」(大阪~富山)「しらさぎ」(名古屋~富山)各1往復が、昭和39年12月から走り始めた。もともと、東海道新幹線開業の同年10月から運転予定で列車ダイヤにもスジも入れられていたが、肝心の車両が間に合わず、年末からの運転開始となった。

山科大築堤を行く、運転開始間もない「雷鳥」。わずか1往復の運転で「第◎雷鳥」でも「雷鳥◎号」でもない、ただの「雷鳥」

 初めての481系も山科で撮っている。151系に比べて床面が高く、その分ボンネット部が圧縮され、ややズングリした印象であるが、60Hz用を示すためスカート部が赤に塗られたのが新鮮だった。今まで電車とは全く無縁だった北陸本線に「こだま」型が走り、しかも京都で見られるとは、大変な嬉しさだった。その後、さらに151系と識別を容易にするため、昭和40年10月改正増備車からは481系、483系ともに赤い”ヒゲ”が入れられた。
北陸に待望の「こだま」型が走ったのだから、その人気ぶりは伺えようというもの。改正後ごとに「雷鳥」「しらさぎ」は増発が続けられ、昭和53年10月改正では、「雷鳥」19往復、「しらさぎ」6往復、計25往復となった。481系の増備車は貫通型になり、すべてが「こだま」型ではなかったし、一部は581系も含まれるものの、たいへんな数の「こだま」型が北陸路を駆け巡った。ボンネット型の「雷鳥」は平成16年まで残り、実に40年もの歴史を持ち、特急の中では最長となった。

湖西線が昭和49年にできるまでの「雷鳥」は米原回りだった。田村駅の南方、現在の長浜ドーム前付近を行く

赤ヒゲの入った「しらさぎ」。米原を出てすぐの北陸本線。当時は田園が広がり、すがすがしい光景の中を行く、「こだま」型はますます美しかった

「こだま」型 若き日の思い出(3)

昭和39年10月1日、「こだま」型の地図は、一夜で塗り変わる。東海道新幹線の開業によって東海道本線の昼間特急からすべて撤退し、全線の電化が完成した山陽本線に活躍の場を移す。
東海道新幹線と接続して、下関行き「しおじ」、宇野行き「ゆうなぎ」「うずしお」(「うずしお」は昭和36年10月改正から)が、、新大阪、大阪から出発して行った。「つばめ」「はと」は、新大阪を始終発に変更して、サヤ420を介してEF30、ED73に牽かれ交流区間の博多まで乗り入れを果たした。
翌年昭和40年10月改正から、さらに広島行き「しおかぜ」が加わる。、それまで昼間特急は「かもめ」「みどり」のみだった山陽本線は、日本一の特急街道に召し上げられた。その拠点になったのが、向日町運転所(現・京都総合運転所)、一躍、花形車両の配置区となり、151系や、153系やキハ82系などが顔を揃えて全国的に注目を浴びることになる。
私も撮影対象として、本数の増加した「こだま」型を求めて、大阪、新大阪へ出向いた。すべて駅撮りではあるが、現在の駅と違って、障害物も少なく、広々して写しやすい。
151系は出力増強されて順次181系に改造されたほか、181系新造車も増備された。そして、「こだま」型の交直両用版481系が出現する。

大阪駅の「うずしお」。手前のクハ151-9は、博多乗り入れのためジャンパ栓が増設され、連結器カバーもはずされた

昭和39年10月改正で新設された「ゆうなぎ」。先頭はクロ151-1 当時の新大阪駅はすぐ横まで民家が迫っていた

「こだま」型 若き日の思い出 (2)

山科大築堤の「つばめ」

日本の基幹路線ともいうべき東海道本線の全線電化が完成したのは昭和31年のことで、電化を機に、当時の客車特急「つばめ」「はと」を凌ぐ高速列車の計画が立てられた。EH10を使った高速度試験も行われたが、従来の機関車牽引では限界があり、動力分散方式の電車を採用することになった。
こうして誕生したのが初の特急電車モハ20系、のちの151系で、昭和33年に東京~大阪間の「こだま」としてデビューした。すべてに画期的な性能・設備だったが、中でもボンネット型の前面形状は、今だに名車として語り継がれ、「こだま」型を強く印象づけている。
乙訓の老人は、Oさんの世話で「こだま」の試運転に潜り込むという幸運に恵まれ、車内で「こだま」を設計された星晃さんに会われている。その後「トレランス」号で星さんと再会され、「こだまの試運転に乗れたのは一生の思い出です」と礼を言ったと述懐されている。

その後、好評に答えて「つばめ」「はと」「富士」などが相次いで151系で登場したが、旺盛な輸送需要にはまだ追い付かなかった。そこで、全く新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をすることになり、昭和34年に東海道新幹線が建設起工された。つまり、東海道本線では電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進めるという、二重の投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。
こうして、昭和39年、新幹線の開業と引き換えに東海道本線の昼行特急は全廃となり、わずか6年で東海道本線から撤退することになる。子供心にもぜひ記録しておきたいという欲望がメラメラと湧いて来る。

中学生ながら“山科の定番撮影”にこだわった一枚。これで後部が切れていなかったら言うことなし  (昭和39年8月3日)

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下して築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。
ここで写したのが「つばめ」である。他の「こだま」「はと」などと共通の編成であるが、ただ唯一、ヘッドマークだけが違っていた。他は白地にスミ文字のいたってシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになっている。由緒正しき「つばめ」の矜持にも感じられた。
客車時代の「つばめ」には全く記憶も記録も持ち合わしていない私にとって、「つばめ」と聞いて真っ先に思い出すのは、151系の「つばめ」である。
最終日となる昭和39年9月30日も、中学校から帰ってすぐに山科に駆けつけている。前にも書いたが、その時に築堤にいたのはほんの2、3人だった。とくに最後の「こだま」を見送るときは先客も帰ってしまい、私一人で、本日最後の東海道本線の電車特急を見送った。その「こだま」は、フィルムが切れてしまい、写せなかったが、夕闇の大築堤を、赤いテールライトが過ぎ去っていく光景が、今も記憶の片隅に残っている。

最終日、山科の大築堤を下って行く「第二つばめ」。つぎの日は東海道新幹線の開業日、10日後には東京オリンピックが開かれる、日本の歴史を刻んでいく日々だった(昭和39年9月30日)

 

「こだま」型 若き日の思い出 (1)

京都駅の「こだま」

ボンネット形の「こだま」型電車の定期運用がいよいよ3月改正で消えると書いた。昭和33年の151系「こだま」のデビューから数えて半世紀あまり、ついに輝かしい歴史に幕を下ろす時が来た。
デビュー当時の「こだま」型は、撮影の対象というより、乗りたくても乗れない憧れの列車だった。山科の人間国宝は「展望車に乗るのが憧れでした」と折に触れて語っておられるが、私にとっては、まさしく「こだま」型がそれに当たる。そう思いながら、古い鉄道写真アルバムを繰っていると、第一ページにこんな写真が貼ってあった。

京都駅1番ホームの上り「第一こだま」 東京方のクハ151

昭和36年8月3日7時30分、上り「第一こだま」、小学6年生の腕ではさすがに稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根の形状から京都駅と分かる。この日、京都駅の一番ホームに私はいた。と言っても「こだま」に乗った訳ではなかった。
8月の中旬に家族で伊豆箱根への旅行を計画していた。その下調べに、父とともに京都駅へ来たのである。この頃の東海道本線は、逼迫する輸送需要に追いついていなかった。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急「こだま」型が増発されたものの、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。ダフ屋が横行していた時代で、何倍もする特急券を泣く泣く購入せざるを得ない。
勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも夏のシーズンなどは満員になる。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると、座れる可能性は極めて低い。この頃の交通公社の時刻表には、急行・特急の月旬ごとの前年の乗車率が載っていた。8月号を見ると、東海道本線の主要な急行は、軒並み100を超していた。
そんな状況の中で、実際それを確かめに京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
これほど左様に、当時の「こだま」型は、日本国民すべての憧れでもあったのだ。ちなみに、その旅行、急行の利用はあきらめ、結局、京都発の普通列車を乗り通し、約10時間かけて沼津に着いた。

新春から鉄道写真三昧 (6)

仕上げは上越線の貨物で

最後の日は、準特急さんと上越線へ向かった。
上越線の貨物列車は夜間帯の運転が中心であったが、牽引機の運用の効率化のためダイヤを見直し、平成21年3月改正から白昼の貨物列車が復活した。
ただ上越線は関西から行きにくい線区で、特派員も一度も撮影したことはない。そこで、年齢にもめげず、つねに戦闘的に写しまくっておられる準特急さんに教えを乞うた次第だ。撮影地としては、津久田、岩本などの山峡区間が有名ではあるが、アプローチが難しいようなので、平坦区間ながらも好ましいカーブが存在する八木原を選んだ。
朝早くに上野を発ち、準特急さんと合流、車内では積もる話で時間も過ぎてしまう。降り立った八木原は、空っ風が強いものの、きれいに晴れ渡り、西の榛名山、東の赤城山と独特の山容が望める。
貨物列車の牽引は、EF64重連またはEH200で、とくにEH200は初めて写す機種だ。傾斜した前面窓のヨーロッパスタイルのなかなか好ましい機関車である。EF64を写すのもずいぶん久しぶりなことだ。貨物列車は昼間の撮影時間帯に不定期も含めて上下6本が写せる。

EF64重連が力強い唸りを上げて通過して行った

淡雪を載せて上越国境から下ってきたEH200牽引の貨物列車

電車は上越線水上行きだけでなく、吾妻線の電車も通り、たいへん本数が多く効率がいい。185系の特急「水上」「草津」は、新前橋で分割併合するため、約5分間隔で同方向に通過する。普通列車は高崎車両センターの115系、または107系である。115系は全車湘南色のまま。115系はまだまだ多いが、原色で全車残っているのは高崎だけである。
列車が待つ間には、準特急さんから鉄道写真の楽しさを語っていただき、たいへん収穫の多い一日であった。このあと【6132】で紹介された新年会へと向かったが、さすがに喋り疲れたのか、二人はぐっすり眠ったまま、電車は大宮へと向かって行った。

湘南色のまま残る115系も貴重になってきた

新春から鉄道写真三昧 (5)

消えゆくボンネットを夜間撮影

今年3月のJRダイヤ改正でいちばんのショックは489系「能登」の廃止だ。以前から廃止は噂されていたものの、ついに来るものが来たという感じだ。昭和33年の「こだま」デビュー以来、国鉄のシンボルでもあったボンネット型特急車両の定期運用がついに消える。
東京へ行くたびに「能登」は意識していたが、時間帯が早朝、夜間とあって、なかなか思い通りには撮れない。ただ「能登」にこだわりがなければ、夜間の間合い運用で、上野発着のホームライナー2往復が「能登」編成で運転されており、数は稼げる。カメラの高感度撮影のテストも兼ねて、流し撮りをすることにした。
撮影地は、上野にも近く立ち寄りしやすい鶯谷に決めた。ホームの横には、猥雑なネオンが不夜城のごとくに輝いている。これをバックにシルエットで流し撮りという目論みである。線路が多くてどこを通過するかよく分からないが、上野駅の入線が地上ホームか地平ホームかで判断する。

鶯谷駅南口の陸橋からホームライナー回送を流し撮り

 

極彩色のネオンをバックに鶯谷を通過する「ホームライナー古河3号」

陸橋から、ホームから、ボンネットを狙ってみるが、どちらも斜め上から流し撮りのため、ピントが合うのは一点だけになる。それを車両の先端部に持ってくるのは、運次第、至難の流し撮りだ。
このあとに催された新年会で、同席されたI伏さんにお聞きすると、氏は上野にある会社に出勤する前に、鶯谷で上りの夜行群を撮られ、それから出勤されるのを日課とされているそうだ。
感度はISO3200でもほとんどノイズは感じられなかった。やはり、これはデジカメの大きなアドバンテージである。ただ写すときに限って手前の京浜東北線の電車とカブってしまう。結局本番の「能登」の時はアウトだった。寒風に吹かれて、肩を落として深夜の鶯谷を離れたのであった。

電車史の歴史を飾ってきたボンネット型特急車の定期運用がついに消える

 

 

新春から鉄道写真三昧 (4)

京成“青電”を撮る

続いて京成電鉄を訪れた。同社では創立百周年を記念したリバイバルカラーの3300形を走らせている。“青電”“赤電”“ファイアーオレンジ”の4両編成3本だが、他車と共通運用のため、どこに入るかは運次第。そこは、クローバー会のありがたいところ、F本さんに尋ねるとすぐに的確なアドバイスが返ってきた。

それによると、金町線に入る確立が最も高いという。果たして高砂駅に降り立つと、4番ホームに発車待ちの金町行きが待望の“青電”であった。3300形のラスト編成モハ3353~モハ3356で、このダークグリーンとライトグリーンの塗色は、“赤電”とともに昭和55年に消滅している。

この電車に乗って初めて柴又駅に降りた。正月明けにも関わらず、帝釈天の参拝客で駅周辺は一杯。柴又から単線になった線路端で、バスツアーの客と雑談を交わすうちに、すぐに戻りの“青電”がやって来た。日中は20分ヘッドである。柴又~金町間の中間付近は道路と並行し、サイド気味に撮ることも可能だが、晴れるとどうしてもビル影ができてしまうので、曇天がお勧めだ。

金町線を行く京成リバイバルカラーの3300形

京成の案内所に聞くと、その他のリバイバルカラー2編成は夜間のみの運行とのことで、金町まで撮ったあとは高砂へ戻る。ホームに着くと本線の複々線区間を行く電車を夕陽が染め上げている。あわてて、3・4番ホームの端へ行って写しまくる。この高砂~青砥間、複々線になっており、乗り入れる車両は京成、都営、北総、芝山、千葉NT、京急と6社にも上がり、多種多様な車両、複雑怪奇な運行には、傍目からはほとんど理解できない。これに金町線の発着、車庫への入出庫も加わって、よく上下2面4線で回しているものと感心しきりである。この区間、中川を渡るため、区間の中央部が凸部になっており、望遠レンズで見る編成は写欲を沸かせる。

京成では今年7月の成田スカイアクセス(成田新高速鉄道)の開業を控え、新型スカイライナーがデビューし、現行のスカイライナーにも変化があることだろう。斜光線に側面を照らされて、その特徴ある鋭角の前部を強調していた。 

夕陽を浴びて交換する京成3500形と千葉ニュータウン鉄道9000形

高砂駅を通過する下りスカイライナー

 

 

新春から鉄道写真三昧 (3)

スカ色113系を撮る

1月4日からは東京方面へ向かった。掲示板【6132】に記載された関東支部の新年会と、出版社での打合せが主目的だったが、もちろん撮影計画も織り込み済みだった。

最初に向かったのは千葉方面。まず総武線で「成田エクスプレス」を撮る。昨年10月から新車両のE259系が投入され、現行の253系はNEXの26往復中16往復にまでに減ってしまった。しょっちゅう見る電車ほど、意外とキッチリした記録が出来ていない。駅撮りながらも、いい光線状態で記録しておきたい。

数を減らした253系。12両編成が疾走するのはなかなかの迫力(小岩)

 そして、いちばん気掛かりなのは、209系2000番代車と置き換えが始まった房総地区の113系の行方である。スカ色に塗られた113系は、近郊形電車のなかではいちばん好きな塗色だ。

以前は、文字通り横須賀線でしか見られないカラーで、この色を見ると、東京へ来たという実感が沸いた。昭和45年の万博のとき、大船電車区から113系が応援に来て、臨時「万博号」として活躍したときは、関西でもスカ色が見られて嬉しかったなぁ。 

E233系の投入で京浜東北線から捻出された209系を大規模改造して生まれた209系2000番代車は、昨年10月より幕張車両センターに配属されて、113系を置き換え始めた。クハの車内はクロスシートに改造されている。

現在では分割併合を伴わない8両または10両固定の運用に限定使用されており、4両、6両編成の場合は、まだ113系。西千葉駅で2時間ばかり観察していると、約2/3が113系、残り1/3程度が209系といったところ。しかし、JR東のすべての総合車両センターで改造工事が進行中で、房総地区の113系、211系を置き換えるのも時間の問題であろう。

この本千葉駅、やや逆光気味ではあるが島式ホームから編成全体がうまく纏められる。内房線、外房線とも撮れるので本数も稼げる。駅の時刻表には編成両数も記載されており、113系を特定することもできるので便利だ。

まだ主力として活躍するものの終末が見えてきた房総の113系(本千葉)

113系に代わって活躍を始めた209系2000番代。車内外が大幅に改造されている(本千葉)

新春から鉄道写真三昧 (2)

初詣は阪堺電車で

初詣風景と電車の取り合わせができるところと言えば、関西では阪堺電軌の住吉鳥居前ぐらいになってしまった。かつては、京都市内でも祇園や四条京阪などがあり、正月になると足繁く通ったものだ。
折りしも阪堺にはグリーン・クリームの竣工時の塗色に復元されたモ501形が走り出した。特派員は、正月の住吉大社は初めてのことだが、電車好きの乙訓の老人は毎年住吉詣でを繰り返したと聞く。しかし、今年は孫の世話で忙しく、電車どころではなかったらしい。
南海本線住吉大社駅から続く参道は人で埋め尽くされていた。阪堺電車も大増発で、最近新設された、天王寺駅前から浜寺駅前への直通系統もひっきりなしに来る大輸送。降車、乗車を分け、自動車を締め出した臨時安全地帯から降りた客は住吉大社の太鼓橋へ向かっていく。非冷房車で冬季限定となったモ161形も、大形の車体を買われての大活躍。
堺市内中心部のLRT計画が持ち上がり、阪堺と一元化する計画が進展して阪堺にも一時は光明が射し込んだかに見えたが、LRT計画中止を唱えた新市長が当選したことにより、計画も頓挫してしまった。正月だけとはいえ、悲観的な将来を吹き飛ばすような繁盛ぶりに心強く感じたものだった。、

次々に来る電車。路面電車全盛時代を思い起こさせる

デビュー当時の塗装に戻されたモ501形、504、505が年末から走る

最古の現役路面電車、モ161形も大活躍

南海住吉大社駅から人波をかき分けるように進む阪堺電車が望める

新春から鉄道写真三昧 (1)

掲示板読者の皆さまも、良き新年をお迎えになったことと思います。

当特派員も昨秋、念願のリタイヤを果たし、鉄道版“晴耕雨読”の毎日を送っておりますが、年も改まり、思いを新たにしています。

届いた年賀状には、鉄道写真の楽しさを説く年賀状が多く見られました。私も同感です。この歳になると、自分の足で鉄道撮影に行ける健康の有り難さも痛感します。戦闘的な撮影は望むべくもありませんが、自分のペースで写真を撮り続けたいと念願しております。

 

阪急6300 最後の正月

新年の撮り始めは、いちばん手近な阪急京都線へ出かけてみる。

摂津市駅開業に伴い、京都線では3月14日からダイヤ改正が実施される。増備を続けてきた9300系が全編成揃うことから、同時に6300系特急車が全廃されることもアナウンスされている。

現在、営業に就いているのは6350Fの1編成のみとなり、年末年始の12月27日から1月7日までは「初詣」のヘッドマークを付けて走った。おそらくヘッドマーク付きで走るのはこれで最後かと思い、近くで狙ってみた。

趣味の対象というより、日常の足として利用してきた6300系も、本線特急から見られなくなると思うと、さすがに愛惜の念が湧いてくる。いかにも電車の顔をした、端正なスタイルは、やはり6300系ならではだ。

寅年の「初詣」ヘッドマークを付けて最後の正月輸送に励む6350F

駅のホームで何気に眺めていた6300もまもなく過去のシーンになる

6300系を初めて写したのは、車庫に搬入されたばかりの昭和50年6月、当会の車両見学会が正雀車庫であり、当時OBだった私も参加させてもらった。車両は奇しくも最後まで残った6350F編成だった。オール転換クロスシート、車端に寄った2扉、初めての2色塗装、そしてステンレス帯を配した前部スタイル、すべてが新鮮で、大宮~十三無停車の京都線の特急にふさわしいステータス車だった。

デビュー当時、このような結末を誰が予測しただろうか。車齢35年での予想外に早い引退は、すなわち京都線を取り巻く環境の変化でもあろう。10分おきに6300系が通り過ぎたのは、ほんの数年前だった。時代の変化を感じずにはいられない。

デビュー当時の6350 現在とは白帯の塗り分けが異なっている 見学会では当会OBの阪急社員お二人に案内してもらった

EVE展示は26日(木)から3日間

ぶんしゅうさんが活発に投稿されるので、最新ニュースでもアッと言う間に次ページに埋没してしまいます。

先ごろお伝えしました、現役のEVE展示も探すのに苦労しますので、ここでもう一度ご連絡します。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

人間国宝 山科の写真展を開催

「山科の人間国宝」こと佐竹保雄さんの写真展が今週末から開催されます。

多方面への好奇心を失わず、家にはほとんど居ないぐらい、毎日元気に出掛けられている佐竹さん、今年の掉尾を飾るのは、山科限定の写真展です。今までも同様のテーマで開催されていますが、未発表写真も含めた、山科の魅力が詰まった総集編の写真展です。

さらに同時に開催される「石井麻子のニットアート展」とのコラボ、「雪とSLの額絵」も見ものです。

「佐竹保雄 山科国鉄写真展」

日時 11月21日(土)~12月6日(日) 期間中無休

会場 京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅内

    烏丸御池駅ギャラリー(ラッチ外、中二階通路にある市民ギャラリーです)

 

なお佐竹さんの在廊日時は

11/28 10~13時            12/5 10~13時   

11/29 10~12時 13~17時     12/6 10~14時

となっています。会員との出会いを人間国宝は楽しみにされています。

かつての日本一の撮影地、山科の魅力を余すところなく表現

 

なお、佐竹さんが以前に著された「おじいちゃんのSLアルバム」が“たくさんのふしぎ傑作集”に選ばれ、絵本仕様になり装いも新たに発売中です。お持ちの方も愛蔵本としてぜひご購入をお勧めします。

今度は書店の鉄道書コーナーに並ぶので買い易い(本体1300円)

今年もEVEへ 鉄道同好会へ

掲示板読者の皆さまには長い間ご無沙汰しておりますが、第二の人生、元気にやっております。「晴れたら取材撮影、雨が降ったら原稿書き」と鉄道版“晴耕雨読”の毎日です。

現役会員からも活発な便りが届きました。「青信号」も充実の最新号が完成、恒例のEVEも着々と準備中とのこと、久保会長から連絡がありました。

EVEは次のように開催されます。土曜日も含まれますので、ぜひ見学にお越しいただきますよう、ご案内いたします。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

11/8に行なわれたカミングデーの様子。今年クローバー会の集まりはなかったが、代わりにEVEへ行ってみるかも。

(ネット情報)「一円電車」復活を 大阪の企業も応援 

産経新聞より転載

 来春の本格復活を目指す旧明延鉱山(兵庫県養父市)の「一円電車」を、大阪府藤井寺市の「丸菱電機」=高垣昌史社長(68)=が応援している。バッテリー機関車のリース・整備専門会社で、募金協力はもちろん、自社の運行ノウハウも指導しており、地元・明延地区の心強い味方となっている。

 同社は、久一義郎会長(89)が昭和29年に大阪市で創業。トンネル工事用などに「日本輸送機」(本社・京都府長岡京市)が製造した機関車を約250両を所有し、リースのほか、関西では丸菱電機だけが日本輸送機の指定整備工場となっている。

 もともと明延鉱山の機関車などの部品を納めていたが、2年前に明延の住民らでつくる「鉱石の道」明延実行委員会が、イベントで走らせる一円電車の客車を牽引(けんいん)するバッテリー機関車を同社からレンタルしたことが一円電車復活運動のきっかけにもなった。

 バッテリー機関車の購入や全長約600メートルの軌道整備には2千万円が必要だが、高垣社長は「バッテリー機関車が働く場所を与えてもらうことはありがたいこと」と、格安での譲渡を約束。今年6月には運行コースを下見し、同実行委に運行マニュアルや安全対策をアドバイスした。高垣社長は「運行は安全第一。一円電車の運行は、社をあげて応援します」と話している。

2009/09/22 22:30更新

【速報】湯口さん「島秀雄記念優秀著作賞」祝賀会行われる

昨8月9日(日)、当会の湯口徹さんが、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」を受賞され、その栄誉を称えるクローバー会の祝賀会が、大阪・曽根崎「ミュンヘン」において、厳粛に、かつ賑々しく執り行われました。参加が叶わなかった皆様に当日の様子を掲示板でお伝えしましょう。
この「島秀雄記念優秀著作賞」は、もっとも優れた鉄道図書を選出し、鉄道趣味界の発展に寄与することを目的として、鉄道友の会によって創設された賞で、今回、湯口さんが著されたRMライブラリー『日本の蒸気動車』(上下)が単行本部門で選定されたものです。

受賞の記念盾を手にした湯口さん(ちなみに受賞に際しての賞金、賞品、交通宿泊費、生涯年金は一切なかったとのこと)

山科の人間国宝からは、終戦直後に出された、ガリ版の模型機関誌「テイルライト」に若き日の湯口さんの記事が載っていることが披露された

祝賀会は、まず琵琶湖のヒマ老人の司会で始まりました。あまたある鉄道図書の中から選定された理由について、「俗説や不明点の多かった蒸気動車に対して、特許や実用新案にさかのぼって、その過程を丹念に検証、これまでの誤謬を修正した点が評価された」と受賞の理由を説明。
徹底して一次資料に当たり、一つの資料の発掘のために、何日も掛けて国立公文書館に通い詰める地道な研鑽姿勢が、今回の栄誉に結実したもので、安易な鉄道図書が蔓延る最近の風潮に警鐘を鳴らすものとも言えるでしょう。
ちょうど蒸気動車では唯一の保存車両である明治村のキハ6401に、今春のクローバー会総会で訪れ、参加者全員で湯口さんの説話を聞いたのも、何かの縁を感じさせるものでした。
これに対して湯口さんからは、小学校以来の表彰を率直に享受したい、クローバー会の理解や援助があっての受賞と吐露され、好きな酒も絶って、残り少ない人生を軽便鉄道や内燃動車の研究に全身で打ち込みたいと力強いお話がありました。
その後、参加者一人ひとりが、湯口さんに祝辞を述べ、記念品を贈呈。
最後に登壇した乙訓老人からは、湯口さんとの長い付き合いの思い出が披瀝され、「ミュンヘン」が選ばれた理由も、クラブ草創期の頃のピク京阪特集寄稿で、原稿料をつぎ込んで祝杯を上げたのが、京都にあった「ミュンヘン」とのことで、湯口さんや乙訓老人にとっては、思い出の店なのでありました。
湯口さんのますますのご活躍・長寿を願って、全員でバンザイ三唱して、クローバー会会員の快挙を参加者全員で祝ったのでありました。

記念品のオロナイン軟膏を中林さんから贈られる(高齢者にしか判らない古典ギャグ)

一人ひとりの参加者と友好を深められた

乙訓老人の思い出話をしんみりと聞く参加者

最後に準特急さんの音頭でバンザイ三唱

名古屋、東京からも駆けつけた21人の参加者

門司港 再訪

以前、下関駅のことについて思い出を書いたところ、準特急さんやK.H.生さんから暖かいコメントをいただきました。こうなれば、関門海峡を挟んだ門司側も書かねばと、最近訪れた門司港のことについて書いてみます。

関門トンネルを抜けて到着するのは門司だが、鹿児島本線は2駅東にある門司港を起点としている。
関門トンネルが開通する昭和17年までは、現・門司は大里であり、現・門司港が門司を名乗り、すべての客貨はここから連絡船で下関へ渡って行った。
九州の鉄道の嚆矢は明治22年の博多~久留米間の九州鉄道の開業だが、2年後には門司~博多~久留米~熊本が開業している。九州鉄道の本社も門司に置かれた。以来、国有化後も、九州の鉄道の管理機構は門司鉄道管理局、九州総局と名を変えても終始門司にあり、門司は九州の玄関でもあり、管理上の中枢でもあった。
関門トンネルの開通後は、その任を現・門司に譲り、門司港と名を改めた門司は、重要文化財に指定される大正3年の二代目駅舎を中心に、かつての栄華をとどめているに過ぎなかった。

昭和47年の門司港駅。ホーム両側に夜行客レが停車中。

まったく変わらない現在の門司港駅。

機関区も以前は門司港にあったが、私が訪れた昭和40年代前半、機関区は門司にあったため、撮影で門司港を訪れることもなかった。しかし、九州内を発着する夜行列車、鹿児島行き急行「はやと」(43-10改正で「かいもん」に改称)、また鹿児島・都城行き121レ(鹿児島・肥薩・吉都線経由)、西鹿児島行き521レ(日豊本線経由)、長崎・佐世保行き行き521レの普通3本、計4本の島内夜行は、すべて門司港始発であった。いずれも撮影地に向かうのに好適な列車で、翌日の撮影のための気力・体力の温存のため、座席の確保は必須で、必ず門司港まで出向いた。今も変わらない古くて暗い待合室で時間をつぶし、改札が始まると、頭端式の長いホームを、リュックを担いで走って目指す進行方向右手窓際の座席を確保したものだ。
どの列車も北九州での帰宅列車も兼ねており、門司、小倉からかなりの乗車があった。なかでも、究極の混雑として忘れられないのは、昭和42年3月に乗った「はやと」で、門司港を出るときはパラパラだったものの、門司、小倉、戸畑、八幡、折尾と停車駅ごとにどんどん人が乗ってくる。深夜にもかかわらず博多からも乗り込んできて車内は異様なほどの超満員。二人掛けの座席に大人3人、子供1人が座る有り様(当時の筆者は高校2年生で、体重は50kgそこそこのスリムな体型であったからこそ)、シートの間にも立ち客があって、横になることはもちろん、まったく身動きできないまま、一睡もできずに朝を迎えたことがあった。ちょうど長距離の鉄道輸送量がピークを迎える時代で、夜行といえども信じられないほどの混み具合だった。

社会人になっても比較的行きやすい北九州は、2、3年に一度は訪れていたが、門司からは、門司港に戻ることなく、小倉、博多へと向かっていた。
それが、最近、ひょんなことから門司港を訪れることになった。きっかけは、JR西日本の「西日本パス」。JR西日本・四国・九州の北半分が特急も乗り放題のフリー切符、ただし、二人以上の発売のため、やむを得ず?家人同行となったが、グリーン用を奮発した(と言っても3日用が20,000円だからホントにお徳)。
N700系グリーン車で着いた博多は、数日間も降り続く土砂降りの雨。案の定、その30分後に鹿児島本線は線路冠水ですべて運転抑止。乗車予定の「ゆふいんの森」も運休となった。西鉄も運休、高速道路が土砂崩れで高速バスも運休、市外へ出る術がない中、唯一動いていた新幹線で小倉へ戻り、路線バスで門司港へ入り、豪雨のお蔭で想定外の門司港再訪が実現した。
門司港駅周辺は、散在する近代建築を生かして、門司港レトロ地区として再生し、観光地として売り出し中である。かつてのうら寂れた門司港地区は、多くの観光客が闊歩する街に変身した。場所柄、韓国、中国からの観光客もたいへん多い。

ライトアップされた門司港レトロ地区。

レトロ地区の中心にある門司港駅。駅舎として初の重要文化財に指定。

賑やかな展示の門司港駅。ゼロキロポストもある。

鉄道関係の施設としては、九州鉄道記念館がある。本館は前述の九州鉄道本社であり、実物車両は、59634、C591、EF1035、ED721、キハ0741、クハ481-603、クハネ581-8が展示されている。いずれも、屋根付きの下に、たいへん美しい状態で保存されている。特筆すべきは、電車・気動車はすべて車内見学OKなこと。クハネ581には、ちゃんと昼間座席と夜間寝台が再現されている。
もうひとつ、最近門司港に加わったのが、門司港レトロ観光列車「潮風号」だ。廃止された臨港貨物線を再生し、平成筑豊鉄道が運行事業者となって、もと南阿蘇鉄道のDB11がプッシュプルとなってトラ改造のトロッコ客車2両を牽いている。シーズンのみの運行だが、30分ヘッドの高頻度運転で、訪れた日も豪雨後の決して恵まれた天候ではなかったが、そこそこの乗客で賑わいを見せていた。

まるでホームに停車中のような九州鉄道記念館の月光形。

レトロ地区を横断する潮風号。