【9875】1957年5月北陸鉄道その1


サハ521+サハ604
金石線サハ521←北陸鉄道ハ14←金石鉄道ハ14←省コハ2475←簸上鉄道ホハ10 台車は菱枠型

しつこく九州が続いたので、今回は気分を換え、古いのは同じだが、53年前の北陸鉄道を何回かに分け、ご覧に供することにする。以前1954年3月撮影分は、確か小松線と金石線をご覧頂いたと記憶するが、今回は加南線、浅野川線、金石線で、要は旧簸上(ひのかみ)鉄道買収客車の最終活躍の姿を撮るのが最大目的。他の電車―木製車ならまだしも、半鋼製電車なんぞは、まあつけたりというか、おまけというか、目の前にいるんだから撮っておこうか、ぐらいの気分であった。今回の撮影は全て1957年5月3日で、旧簸上鉄道の客車に絞る。

以前の小松線、金石線の際も少し記したが、その後この一連10両の旧簸上鉄道の小型ボギー客車には、ぞっこん惚れ込んだ。早い話一時期カンカンになっていたのである。バッファーを含めて全長32フィート9インチ(9,373mm)と短く、最大幅は8フィート2インチ(2,480mm)だが、車体実幅は7フィート(2,134mm)と、ニブロク軽便並みである。屋根は浅いダブル、両端は貫通式窓付オープンデッキ。サイドの出入り口上部には飾り金具があった。

木次線は1932年12月18日木次-出雲三成間が開業。宍道-木次間1916年10月11日開業済の簸上鉄道を1934年8月1日買収して木次線につなげ、かつ線路規格を改修。こんな小さい客車も、一旦鉄道省としての形式番号が与えられはしたが、勿論すぐ処分された。

ホロハ1~3はコロハ1620~1622に付番されたが、出石鉄道に行き、そこも戦時中の企業整備で東武鉄道に転じたが、浅草に留置中2両が戦災に遭い、1両のみ日光線コハ120に。あとの7両コハ2470~2476は、ことごとく金石鉄道、温泉電気軌道、金名鉄道と、北陸線沿線の小鉄道に再起し、北陸鉄道に統合されたのであった。

北陸鉄道に集結したこの7両は、製造年次や台車に若干差異はあるものの、まあ同型とみなして差支えない。しかるに北陸鉄道車両課は僅かな寸法的差異等をことさら強調?し、配属先線区毎にサハ501、511、521、551、561と実に5型式に区分した。合体後の三重交通車両課とよく似ている。

前回ご覧頂いた1954年3月撮影のサハ511(小松線)、サハ521、551(金石線)はまだオープンデッキだったが、3年後ではことごとく中妻、貫通路も撤去され、箱型車体に改造・締め直されていた。引戸が設けられ、当然次位の窓は戸袋に、扉下には踏み込みが付された。


サハ552←北陸鉄道コハ2←金名鉄道コハ2←省コハ2475←簸上鉄道ホハ9 妻面の手ブレーキはベベルギヤを使った 日車この時期の小型客車に独特の野上式 台車が菱枠型なのは野上八重治辞職後の製品だからである
サハ562←北陸鉄道ハフ8←温泉電気軌道ハフ8←省コハ2472←簸上鉄道ホハ6 台車は3号野上式弾機台車

なおこの小型ボギー客車は、日車の技師長に鉄道院から野上八重治を招聘した時期に重なる。彼は日車入りするやすぐ欧米視察に出してもらい、帰国するや矢継ぎ早に発明を特許化。軽便用を含め台車の弾機で4種、手ブレーキ2種等々で、当時需要が高かった小型ボギー客車に片端から装着して送り出した。彼なりに外遊のの恩返しでもあったのであろうが、構造が奇抜すぎた。

今回の写真では、最後のサハ560型の台車弾機をよくとご覧じろ。何やらオイルダンパーと間違いそうで、正直小生も最初に見た時はてっきりそう思った。これは野上八重治が3番目に発明した「野上式3号弾機台車」で、一種の原始的な空気バネのようなもの。頚城鉄道のボギー客車全部がこれを装着しており、現在も1両だけ残る旧畳敷客車改造のホジ3に健在である。

彼の発明した弾機台車中、1号型は井笠や宮崎など、温暖地では別段のことはなかったが、皮肉にも北陸、信越の雪国発注の客車に集約して装着され、ことごとく冬季雪を抱き込んで危険状態に陥っている。頚城鉄道では無認可で3号型に有料交換、石川、丸岡、栃尾鉄道では通常のダイヤモンド台車に交換=恐らく日車の無料アフターサービスと思われる。野上は山陽鉄道出身で、豪雪地帯の実情に疎かったのであろう。

こんな台車を売りつけられた方こそ、いい迷惑であった。なお野上式弾機台車4号型は冬季に限らず丸っきりの欠陥台車で、簸上でも1両に装着していたはずが、簸上時代に振り替えられていたと思われる。残りはまとめて兵庫電気軌道に赤字で叩き売り、バラック応急電車といわれた22~28が装着した由だが、長生きはしていない。折角招聘した技術者だったが、その後すぐ辞めた(辞めざるを得なかった?)ので、日車は心底ホッとしたはず(社史『驀進100年』には勿論そんなことは書いてない)である。彼は野上式自動織機を発明し、それを製作販売する会社を興し、独立したのであった。


【9650】1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり


【9532】(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。



【9213】1955/57年北九州福岡3

前々回挿入し忘れがあり、話が前後し申し訳ないが、トシの所為としてご寛容の程を。東小倉の廃車体で、1932年廃車後小倉鉄道に払い下げられ、1943年5月1日同鉄道買収で復籍した客車。経歴は鉄道作業局11(新橋工場1900年製造)→鉄道院ホロ5516(形式5510)→ホロハ5740(5740)→ホロハ1460(1460)→ホハ2440(2440)→小倉鉄道ホロハ1→ホハニ1→再買収ホハニ4097となる。


ホハニ4097廃車体←小倉鉄道ホハニ1←ホロハ1

ナハ2457廃車体 吉塚

吉塚にも廃車体が3つあった。ナハ2457は1951年4月30日門鉄で廃車になったもので、鉄道作業局ホボ41→鉄道院ホロハ5725(形式5720)→ホロハ1458(1450)→ナハ2457(2450)。神戸工場1909年製である。車体中央に外釣引き戸が設けられているのは、戦時中の多客化改造=通勤用客車になっていたから。


ナハフ14121廃車体 トラス棒がついたままなのが珍しい 吉塚

筑前参宮鉄道ハ3~6のどれか 菱形の神戸工場銘板が残る 前身はロ524~527=4扉が二等車を示すのは加悦保存(復元)車と同じだが こっちは両端デッキ式に改造 吉塚

何もこんな苦労してまでヘンな場所に据え付けなくてもいいと思うが

かつては線路や道路も松林だったんだろう 今ではどんな風景になっているのか

西鉄福岡市内線126

同じ西鉄でも門司~折尾の北九州線が半鋼車と連接車で固めていたのに、福岡市内線にはクラシックな高床ボギー車がどっさり。それでもデッキには折り戸がつき、窓は下段上昇に改造されて入るが。お客は折り畳みステップと踏み段を上がらねばならない。流石にデッキ・客室間の仕切は撤去されている。


西鉄福岡市内線128

西鉄福岡市内戦132

西鉄福岡市内線135 これは2段目の踏み段が車外にあり、車内へは都合4段上る

西鉄福岡市内線138

西鉄福岡市内線143

西鉄福岡市内線507

西鉄福岡市内線576

前々回入れた到津遊園のコッペル機の、4年後の悲しい姿のネガが偶然出てきたので、事のついでにお目にかける。全体を錆止めペイントで灰色に塗装されているのはいいとして、キャブがこの有様。ロープかワイヤーをかけて自動車で引っ張りでもしないと、こうはならないだろう。これは6番目の政令指定都市北九州市誕生(1963年4月1日)に合わせ、この遊園地(つまりは西鉄)が指定都市展なるものを企画し、東京都と各指定市に出品を勧誘。そのため展示会場にあわせた出品物の検討に、就職1年半の新米(小生)が派遣され、その折撮影したと記憶している。幸い現在では修復されて別の=機関車にゆかりのある場所に保存されているそうだが。機関車に限らないが車両にせよ、建築物、文書にせよ、保存に熱心だった人がやめたり、転勤したりすると、大方がこんなことになる。


痛々しいコッペル機

ロッドも失われているのか 盗難を避け別に保管しているのか


【9044】1955/57年北九州福岡2

西日本鉄道宮地岳線多々良車庫の車両は当然もっとある。モ2は木製車体の3扉車で、博多湾鉄道汽船―非電化時代の1925年ナハ1~3として川崎造船所で作られた、100%電車タイプのいわゆる「電車型客車」―方向幕窓まであった。
すなわち将来電化を予想していたわけで、このような客車は佐久、筑波、河東、東武、松阪電気鉄道など結構あり、予定通り電車になったケースも勿論あるが、客車で終始した例も少なくない。博多湾鉄道汽船では1929年めでたく電装され、デハ1~3に。

西鉄宮地岳線モ2←デハ3←ナハ3 

モ6←デハ6 電化に際し日車で製造された半鋼製車 窓配置が古めかしいが小田急モハ1→デハ1101型と寸法は殆ど同じだそうな

ク59←国鉄モハ316←鶴見臨港鉄道モハ316 台車は長軸だからTR11であろう

ク61←国鉄クハ6005

ク62←国鉄クハ17074 仮台車を履いている

ク62

ク55←サ55←国鉄キハ5026←北九州鉄道キハ9 西鉄で片ボギー車を両ボギー化 偏心台車は先回アップした旧中国鉄道ガソリンカーのものと思われるが、菱枠が三角リブで補強されている 元来は汽車会社製の無骨な60人乗り気動車

東芝製標準凸型電機202

吉塚駅前は3線式になっていて 1067mm軌間には木製で独特のB電機がセムを曳き続行運転をしているのが珍しかった 右手にオート3輪車が覗く

西鉄1012 電機か電貨か迷うが前者らしい オート3輪車も全盛期

西鉄1014 これも電機より電貨がふさわしそうだがやはり電機に分類されている


【8937】1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由